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■人生の意義について1
「自殺してはいけない」と言うとき、“なぜいけないのか”という説得理由が必要です。前のページまでで見てきたとおり自殺者は死後の世界で苦しむことになる、ということも自殺を思いとどまってもらうための説得理由の一つなのですが、それよりももっと大切な理由があります。それは「地上人生は霊としての自分を成長させるためのとても大切な期間である」といういうことです。自殺を考えている方の中には、「人生にはどんな意味があるのか」という疑問を持っている人もいると思います。このページ以降は、それについて霊的な観点から考察します。
本来、私たちは霊的な存在です。自我と個性とを持ったエネルギー体といってもよいかもしれません。それが一時的にこの物質界で肉体をまとって生活しているにすぎません。この物質界を現実感を持って体験するためにはどうしても肉体に宿る必要があるのです。肉体は霊がこの世で使用する良く出来上がった器械という訳です。ですから、たとえ自殺で肉体的生命を絶ったとしても、自分という存在を消し去ることはできません。自殺で失うのはあくまでも肉体的生命だけであり、霊としての自分はずっと存在し続けます。
人生には意義があります。ただの一人も無目的でこの世に生まれてくる人はいません。実は、私たちは生まれる前に、どのような人生を歩むかについて自らその計画を立てています。自分自身の霊的成長を図る上で、どのような体験や試練が必要なのかをあらかじめ決めた上でこの世に降誕してくるのです。要するに、今いる環境を選んだのは自分自身であり、それは自分に足りない能力や資質を開発したり、持っている才能を伸ばしたり、あるいは前世からの負のカルマの解消を図る目的でそうするのです。
しかし、それらの記憶は一旦この世に誕生してしまうと忘れてしまいます。なぜかというと、生まれる以前の記憶が残っていると地上での修行の邪魔になるからです。もし自分や他人の前世を知ると日常生活に支障をきたすかもしれません。もし自分の人生の行く末を知れば、本来受けるべきであった試練を回避しようとしてしまうかもしれません。ただし忘れるといっても地上に生きている間だけで、死んで霊界に帰れば以前(過去世)の記憶を思い出すことができます。この世で活動している間は一時的に“記憶喪失”の状態にあるということです。
生まれる前の記憶を忘れることに関して一つだけ困った点があります。それは、地上に生まれた時に行うべき使命も一緒に忘れてしまうことです。地上でこのような貢献をしようと決めたことを忘れてしまうのです。それを思い出せず無為に人生を送る人もいますし、自分の天命を首尾よく見つけて意義のある人生を送る人もいます。こればかりは誰も教えてくれる人はいないので、自分自身で見つけ出す以外方法はないのですが、その方法があるとすればこのページでも説明しているとおり、善霊や高級霊のような天使的存在と繋がりを得ることであり、彼らと繋がるためには日常生活において利他的・奉仕的な生き方が必要である、ということです。
では地上で犯罪を犯す人はそのような計画を立てていたのか、という疑問が湧きますが、もちろんそうではありません。悪をなす目的でこの世に降りてくる霊はいません。その人は霊性(霊格)が未発達が故に動物性の欲求・欲望に負けてしまった場合です。これと同じく自殺することを計画していた人もいません。自殺による死は寿命ではないのです。
私たちには人生において一定の範囲内で“自由意志”が与えられており、霊として成長するか否かは本人の努力次第です。計画はあくまでも計画であり、地上人生で順調に霊的な成長が図れるかどうかはその人の自由意志に任されています。私たちは自由意志を行使できる代わりに、それに伴う責任も負わされます。そのような霊的法則(因果律・カルマの法則)が私たちを律しているからです。自殺する自由もありますが、それに伴う責任も取らねばなりません。それによって周囲に与えることになった悪影響の代償を受け取らねばならないのです。
トップページ ≫ 人生の意義について1 ≫ 自殺による悪影響は計り知れない
■自殺による悪影響は計り知れない
自殺によって臨死体験をしたアンジーの体験内容はこのページで述べたとおりなのですが、その後に彼女は自身が自殺して死んだ場合、二人の息子や愛する人たちがどのようになるのか、その未来を垣間見ることになります。そして、自分が自殺することによって、どれほど周囲の人たちに悪影響を及ぼすことになるのかを知ることになるのでした。
(…前略…)しかし、いまわかったことだが、わたしは自殺によって、この世における人と人との網のようなつながりを断ち切りかけていたのだ。人間はみなどこかで他人と結びついているのだから、わたしが網を切れば、何百万という人の人生が劇的に変わってしまうかもしれない。ひとりが好ましくない決断をすれば、その影響が世界じゅうの人の心に広がることもあり得るのだ。
わたしの自殺で、息子たちが深刻な影響を受けるのは間違いなかった。わたしはふたりの未来を少しだけ見せてもらったが、それはできごとというより、ふたりの人生の性格というか、エネルギーのようなものだった。わたしが現世での責任を放棄すれば、息子たちの人生にも影響が出る。特に、長男のアレックスは、その影響のもとでいくつかの決断をして、そのために神聖な目的に通じる道を離れることになりそうだった。アレックスは、生まれる前に、この世での人生でいくつかの使命を果たすと約束したという。(…中略…)アレックスは多くの人の人生に大きく関わる重要な役目を与えられているらしい。(…中略…)
ジェイコブの人生は兄とは違っていた。彼はすでに、神のために崇高な任務にとりくんでいたからだ。わたしは、自分が生まれる前からジェイコブを知り、愛していたのだと知らされた。ジェイコブのほうも、わたしの息子として生まれることを選んだのだという。(…中略…)
そのあと、夫や妹のトニなど、ほかの身近な人たちが、わたしの自殺によって傷つくさまも見せられた。その影響はさらに広がって、結局は数え切れないほどの人が傷つくことになるのだった。(…後略…)
(P.155-159)
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私たちは生まれる前にかなり綿密な人生計画を立ててこの地上に誕生してくるようです。もちろん、この世でのすべての出来事がそれに沿って起こっているのではありません。私たちには自由意志があり、それを行使することによって人生を形作っているからです。明日の献立まで生まれる前に決めている訳ではないのです。どうやら人生とは“運命”と“自由意志の行使”との間の絶妙なバランスの上で成り立っているようです。
地上人生は決して運命論的な筋書きが存在している訳ではありません。しかし、人生において重要なターニングポイントとなるような出来事というのは、あらかじめ生まれる前に“そうなるように”設定しているらしいのです。例えば結婚や出産のような出来事の場合です。これは上で見たアンジーの証言で理解できます。
アンジーは長男のアレックスについて、「アレックスは生まれる前に、この世での人生でいくつかの使命を果たすと約束した」と言っています。また次男のジェイコブについては、「ジェイコブはわたしの息子として生まれることを選んだ」とも言っています。このことは、あらかじめ人生において“定められた運命”の存在を示唆しているように思われます。
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トップページ ≫ 人生の意義について1 ≫ 人は自分の意思で生まれてきている
■人は自分の意思で生まれてきている
「親が勝手に自分を産んだのだ」と言う人がいますが、それは大きな間違いです。私たちは皆自分の意思で親を選び、自ら進んでこの世に生まれてきているからです。その目的は霊としての自分自身の成長のためです。自分の成長にとって最適だという環境を選んでこの世に生まれてきているのです。このことについて『死んで私が体験したこと』の著者が次のような体験談を述べています。
この本の著者のベティー・イーディーは、出産直後に危篤状態に陥り、その際に臨死体験を経験しました。彼女はそのときの様子を「磁石に引き付けられるように霊が身体から抜け出し上へ昇っていった」と語り、また「下に寝ている誰かをのぞくと、それは自分の死体だった」とも語っています。
ベティーはこの体験の後に霊界を探訪することになるのですが、その前に家族のことが気になり家に戻ることにします。その際は幽体離脱した状態だったので、「家に帰りたい」と思うだけで瞬時に家に帰ることができました。家の中には夫と子供たちを確認することができます。そして彼女は、彼ら一人一人の“人生の予告編”を見ることになるのでした。
(…前略…)家族の一人一人をじっくり観察してみました。それぞれの人生の予告編がわたしの心のなかに映し出されていきました。この世でわたしの家族は自分の人生をそれなりに歩んでいくことがわかりました。子供たちは「わたし」の所有物だと思っていたのですが、実はそれは間違いでした。一人一人がわたしと同じように独立した霊で、この世に生まれてくるまえからすぐれた知性が備わっていたのです。そして一人一人に与えられた自由意志で、自分の人生を選んでいくのです。子供たちの自由な意思を否定することはできません。わたしはただ子供たちをあずかっていただけだったのです。子供たちにはそれぞれの人生のスケジュールが用意されています。それがどんなものだったか、いまでは思い出せないのですが、そのスケジュールを終えてしまうと、子供たちもこの世の滞在を終えるのです。子供たちがこれから体験することになる試練や苦難の数々を、わたしはさきにこの目で見てしまったのですが、みんな子供たちの成長に必要なものばかりでした。(…後略…)
(P.59-60)
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ベティーは家族の様子を確認した後、霊界探訪を行うことになります。彼女は様々な場所を訪れ、そこで活動している霊人たちと交流することになりました。そのうち彼女はある場所を訪れることになります。そこは地上に生まれる準備をしている霊たちがたくさんいる所でした。彼女はその中のある男の霊に注目することになります。
(…前略…)そのなかで一人の男の霊が目にとまりました。その霊は、この世の不完全な男女を添わせようと懸命になっています。将来、その二人の人間が自分の両親になる予定だったからです。キューピッド役のその霊は難儀をしています。若いカップルは反対方向の人生を歩もうとしているので、知らず知らずに冷たい関係になっていました。その男の霊は二人を導き、語りかけて、なんとかいっしょになるように説得に努めています。苦境に立ったその霊を仲間の霊が心配して、みんなで障害を取りのぞこうとしています。なかには、その若いカップルを囲いこもうとしている霊もいます。
(P.138)
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下線の部分で述べられていることはとても興味深いと思います。自分の両親を結婚させたのは、実は子供である自分自身だったのかもしれない、ということを示唆しているからです。自殺を考えている人、とくに10代や20代の若く未婚の方は、このような事実が存在するかもしれないという前提で、自分自身の未来に思いをめぐらせてみてください。
ベティーはこの男性の霊を観察した後、別の霊に注意を向けます。その霊はこの世に生まれるための準備をしていて、ある条件を持って今まさに母親の胎内に入っていこうとしている瞬間でした。
若いカップルを懸命に囲いこもうとしている霊の姿を見たあとで、今度はこの世に出かける準備でおおわらわの霊に注意を向けました。強烈な光を発している活発な霊が、いままさに母親の胎内に入ろうとしています。その赤ん坊の霊は精神的な障害を負ったまま、この世に行こうとしていたのです。しかも、このチャンスに恵まれたことを大いに喜んでいます。これで自分も両親も成長ができると確信しているからです。結び合わされた三人の家族のあいだでは、ずっとまえからこのことが決められていたのです。赤ん坊の霊は障害という肉体的な条件をもって、人間としての自分の人生のスタートを選びました。その霊は母の胎内にすべりこんで、できたばかりのいのちに入っていきました。(…後略…)
(P.142)
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私たちは生まれる前に人生計画を立てているのですが、生まれる前にあらかじめその地上人生がどのようなものになるのかを大まかに理解した後、この世に降誕して来ます。自分自身の成長にとって最適な人生であることを納得した上で生まれてくるのです。そしてまた、進化した霊ほど困難で苦労の多い人生を計画しているようです。そのことについてシルバーバーチ霊は次のように語っています。『古代霊シルバーバーチ 新たなる啓示』からです。
問:霊界から地上へ誕生するに際しては、地上で果たさねばならない仕事をあらかじめ見せられるのでしょうか。
答:一般的にはそうです。その人の霊的発達程度に応じて、どういうことをするかの選択が許されます。見せられるといっても、細かい点までいちいち見せられるわけではありません。地上でも、たとえば溺れて危うく死にかかった人が、その危機一髪の瞬間に、それまでの過去の生活を全部見た、という体験をすることがありますが、事実そういうことは有り得ることでして、地上への誕生前に地上生活をあらかじめ見せられるのも、そういう形でのことです。そういう生活がその人の次の進化の階梯にとって必要であるとの認識のもとに選択するのです。霊的に進化した人ほど困難な仕事を選ぶものです。
それは当然ではないでしょうか。高度な叡知を身につけた人が安楽な仕事を選ぶはずはありません。偉大な人物が困難の人生を送るのは、その辺に理由があります。それはその人が覚悟していた挑戦です。それを克服することによって、それまで未開発だった資質が開拓され、霊性が一段と発現されるのです。しかもそれは、死後霊界において為さねばならない、より大きい仕事のための準備でもあるのです。
問:それは自分で選ぶのですか、それとも授けられるのですか。
答:どちらの場合もあります。こういうことが出来るという可能性と、これだけのことはしなくてはならないという責務とが指摘されます。それは、ある一定レベルの発達段階に達した人の場合です。その場合でも選択の自由は許されます。もっとも、選択の余地が与えられない場合もあります。どうしてもそうならざるを得ないカルマが廻ってきた場合です。
問:そちらから地上界へ誕生するのは一種の“死”とみてよいのでしょうか。
答:結構です、一種の死です。あなた方が死と呼んでいるのは霊的に見れば霊界への誕生であり、あなた方が誕生と呼んでいるのは、霊的には死と同じです。
何度も申し上げていることですが、仲間が地上界へ行ってしまうのを見て、霊界では大勢の者が涙を流しているのです。反対に、地上を去ってこちらへ来るのをあなた方が悲しんでいる時、私たちは“ようこそ”と言ってよろこんで迎えているのです。すべては全体としての視野の捉え方の問題です。
(P.159-161)
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シルバーバーチが二つ目の下線の部分で興味深いことを述べています。私たちが霊界から地上世界へと生まれる際に、今は忘れている仲間たちが別れを惜しんでいることを述べているからです。地上でも霊界でも、やはり一時的にとはいえ別れることは辛いものです。この一文で、あの世もこの世と変わらない情緒的な世界であることが分かります。
自殺は彼らのような存在を悲しませてしまいます。目には見えなくても、私たちには多くの協力者が存在しています。守護霊や指導霊・背後霊たちです。彼らは私たちが無事に地上での人生計画を完遂できるよう指導・協力してくれているのです。そのような理由で私たちは誰もが孤独な存在ではないと言えます。自殺は自分に係わる地上の人間を悲しませるだけではなく、彼らのような見えざる霊たちをも悲しませてしまうことを知らなければなりません。
それぞれの霊は様々な人生計画を立ててこの世に降誕してきます。その計画は本来なら自分自身の力を十分に発揮すれば乗り越えられることばかりです。なぜなら、自分の力で解決できないような出来事の発生は基本的には認めてもらえないからです。私たちは一人で計画を立てるのではなく、高度に進化した叡智に富む神霊(自身の守護霊など)との相談によって、“身の丈に合った”計画の下、この世にやってきます。中には苦労ばかりの人生を送っている人もいますが、シルバーバーチが「偉大な霊ほど困難な人生を選ぶ」と述べているとおり、苦労が多いからといってその人が“不幸な人”であるとは限りません。この世的には不幸に見えても、霊的な視点で見れば困難な事態に耐え得る力を持った高度に発達した霊かもしれないからです。
もし、「自分の人生には苦労が多い……」と不満のある人は発想の転換をしてみるのも良いかもしれません。少し抵抗があるかもしれませんが、それに対して感謝の気持ちを持つのです。苦労が多いということは霊的成長の機会を多く頂いたことになる証左でもあるからです。力のない人は重い荷物を背負わされることはありません。力があるからこそ背負うことができるのです。シルバーバーチ霊が下線で述べているとおり、“霊的に進化した人ほど困難な仕事を選ぶ”ということです。
人生計画を立てるにおいてある者は苦難続きの人生を選択し、それに立ち向かうことで霊的に成長しようとするかもしれません。またある者は前世からの負の業(カルマ)の返済を目的として苦しい人生を送るかもしれません。中には華やかな人生を選択する者がいるかもしれません。どのような人生であれ、それはその霊が自ら選んだものであり、自分を取り巻く境遇が不満だからといって、それを他の誰かの所為にすることは筋違いなのです。同時にこれは、自分と他人との人生を比較して、その相手を羨んだり妬んだりすることなどまったく無意味であることも意味しています。
意識するしないに関わらず、すべての人が責任を負ってこの世に生まれてきています。すべての人がその人なりの役割を担って地上での人生を送っているのです。ですから、意味のない人生というものは有り得ず、誰もが必要とされてこの世に存在しているのです。その一人一人は社会を構成し動かす歯車であり、その歯車には他の人では補えない大切な役割が各自に与えられています。もし自殺という形でその歯車が脱落すれば、いずれ社会に歪み、軋み、不調和という問題を噴出させることにもなりかねません。もし自殺でそれらを生じさせた場合、いずれその対価を支払うことになります。
人生を生きるにおいては、あまり思いつめずに時には開き直ることも必要かもしれません。「なるようになる」という楽観主義です。地上人生で計画していたことはそれがどのようなものであれ、起こるべき時に起こります。自分を成長させるために必要な“イベント”だからです。この世で生きていく上で私たちが気をつけておくべきことの一つに、“心配の念を宿さない”ということが挙げられます。心配の念はその人の精神を腐食させ、衰弱させてしまい、霊からの憑依を許す原因になるからです。その霊が悪意を持った霊、つまり悪霊や邪霊、地縛霊といった類のものなら、憑依された側の人間はいずれ自殺へと追い込まれていく危険性があります。ですから、常に心を明るく健全に保つ努力が必要です。善霊と感応し易くなるからです。「笑う門には福来る」という諺は真実を言い当てているのです。
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トップページ ≫ 人生の意義について1 ≫ 地上人生の真の目的
■地上人生の真の目的
私たちはこの世(物質界)に生まれる以前はあの世(霊的世界)で生活しており、ある目的を持ってこの世に降誕し、肉体の死後はまた霊的世界に生活の舞台を移す、という循環(生まれ変わり)を繰り返しています。ですから、もし死を自分という存在の消滅だと考えている方がいるなら、それを改めていただかなければなりません。そういうものは存在しないからです。
“ある目的”とは自分自身を成長させることです。霊としての自分のレベルを上げるためです。この世は霊のレベル(霊格)を上げるためのトレーニング場なのです。トレーニングですから苦しいのはある意味当然のことと言えます。スポーツ選手が苦しい練習の末に良い結果と栄光を勝ち取るように、私たちはこの苦しい地上人生を生き抜き霊的に成長することによって、死んで霊的世界へ帰ったときにより高い世界(高級霊界)へと赴ける権利を勝ち取ることができるのです。
死後に赴くことになる霊的世界は幾つもの階層的世界で構成されています。私たちは死後、自らの霊的成熟度に応じたいずれかの世界に落ち着くことになります。霊的世界とは完全な公平・公正さで形成されている“格差・階級社会”だと言えます。格差社会と聞くとあまり良いイメージを浮かべない人もいると思いますがそうではなく、その人が行い、考えてきたことが良い意味でも悪い意味でも報われる世界なのです。この世で誰にも知られず行った善行が実を結び報われる世界であり、誰にも知られず行った悪事が白日の下にさらされる世界です。要するに、その人の人となりがすべてあらわになるところであり、誰一人その本性を隠すことができません。そして、その本性に相応しい世界へと死後、私たちは赴くことになるのです。
その霊的世界の階層(界層)について、シルバーバーチ霊は次のように説明しています。これはポール君という男の子からの質問に答えたものです。
問:死後の世界の界層(レベル)について教えてください。シルバーバーチさんはよくその違いについて話しておられますが、どういう違いがあるのですか。
答:成長の度合いが違うのです。しかし、その違いは地上のようにものさしで計れるものとは違います。もしわたしがポール君に、愚かな人と賢い人、あるいは、欲張りと聖人との違いを寸法で計りなさいと言っても、そんなことはできませんね?
しかし、それぞれの界に住む霊の成長には大きな差があるのです。こちらでは魂の成長に応じた界層、むずかしい言い方をすれば、その人の知性と道徳性と霊性の程度に合った世界に住むようになります。界層の違いは、そこに住む人の魂の程度の違いだけで、霊性が高ければ高いほど、善性が強ければ強いほど、親切心が多ければ多いほど、慈愛が深ければ深いほど、利己心が少なければ少ないほど、それだけ高いレベルの界層に住むことになります。
地上はその点が違います。物質界というレベルで生活しているからといって、みんなが精神的に、あるいは霊的に同じレベルの人たちばかりとはかぎりません。身体は同じレベルのもので出来あがっていますが、その身体が無くなれば、魂のレベルに似合った界へ行くことになります。
(『地上人類への最高の福音』 P.81-82)
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シルバーバーチが述べているとおり、霊的世界は多層構造(右図 クリックで拡大)になっており、霊のレベル(霊格)によって生活する世界が変わってきます。進化した霊のみがより高い世界へと進むことができます。そして霊格がある段階にまで達すれば、この世に生まれ変わる必要がなくなります。同時にこれは、地球という“学びの場”での学習を終え、次はより高度に発達した天体上に“進級”していくことが可能になることも意味しています。このことはこのページで触れます。霊的世界では階層が高くなればなるほどその世界は荘厳さを増していき、そこに所属する霊も同様に輝きを増していきます。図表の左欄で分けられている“神界”にまで達した霊は、いわゆる“天使”と呼ばれる者たちのことです。
人生の目的自体は実は単純で、それは「この世で様々な体験を経ることによって霊的に成長・成熟していくことで、死後に待ち受ける本格的な霊的世界での活動に備える」ということになります。本当の意味での生命活動は霊的世界に移ってから始まります。そこが私たち本来の故郷であり、仕事場だからです。私たちは幸か不幸か永遠の時間を生きる存在であり、この世は霊的世界に帰ってからの活動に備えての予備的・予行的段階です。言わば卵から孵化した稚魚が大海へと歩み出すように、私たちも死んで地上を去るとより広大な霊的世界へと歩を進めていくのです。
しかし、そうは言ってもこの世での滞在は大切な期間です。決して疎かにはできません。生活内容次第であの世での位置(霊的階層)が決まるからです。この世での人生は大切な学習の期間であり、試験期間でもあります。このサイトで自殺防止を訴える理由もひとえにこの真実が根拠になっています。そして死後、上層界へ進化していくためには下線部でシルバーバーチが述べている要素が重要になります。それらの要素を身に付ければ付けるほどより高い階層へと進化していくことができます。この世はそれらの要素の開発・育成・鍛錬のための世界でもあるのです。
そして、地上人生を送るもう一つの理由として“カルマの解消”という大切な役割もあります。どの人にも過去世があり、多くの過ちを犯している場合があります。それらの負のカルマを解消する目的で人生を送るのです。負のカルマは霊的世界の高い階層への進化を阻む足枷であり、なんとしても解消しておく必要があります。もし今生で罪を犯していたとしても、これからの生き方次第ではそれを軽くしていくことも可能です。それには無私の善行、つまり人や社会のためになることを積極的に行っていく必要があります。
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トップページ ≫ 人生の意義について1 ≫ 霊の進化 地球圏霊界から宇宙圏霊界へ
■霊の進化 地球圏霊界から宇宙圏霊界へ
上で「地上人生での目的は霊的に成長すること」と述べましたが、ではそもそも何のために成長する必要があるのか、という疑問が浮かぶかもしれません。成長したらどうなるのか、ということですが、その答えの一つは“霊としてのより大いなる自由の獲得”だと言えます。果てしない霊的宇宙への飛躍です。
霊的進化は地上界と霊的世界のどちらの活動によってもなされます。大抵の人の死後は、図の左欄で分けられている“幽界・アストラル界”と呼ばれる霊的世界の低地に落ち着くことになります。特に悪人でも、また善人でもないからです。その人たちは少しずつ地上的習慣や常識、または執着といったものを削ぎ落としながら、さらにその時々の界での学びや経験を経ながらゆっくりと上層界へと進んでいきます。
一方、地上で欲望の赴くまま暮らした人、それを叶える為には他人を傷つけることを厭わなかった人の場合は、より低い階層、いわゆる地獄界と呼ばれる世界へと落ちていくことになります。そこは矯正と悔悟の世界であり、自らの悪行で傷ついた人たちの側から苦しみや悲しみを感じ、鋭敏になった霊的感性によって良心の呵責を覚えるようになり苦悩します。そしてここは自殺霊の住む世界でもあります。そこでの長い長い辛酸と浄化によって、彼らもまた少しずつ上層界へと進んでいくことになるのですが、時には比較的早く地上界へと生まれ変わって贖罪の一生を歩む場合もあります。
図表の“幽界”と“霊界”との境界に「第二の死・無意識状態を体験する」という文言があります。これは霊的世界の低地から上層界へと進化していく際に、地上界での死に似た現象が起こることを意味しているのですが、ここでも紹介した『スピリットランド』の通信霊フランチェッツォが、自身が体験したその状態を次のように述べています。彼の地上時代は褒められた生き方ではなかったので、死後は地獄的階層にまで落ちていくことになりました。しかし、悔悟と浄化の辛い過程を経て、今では霊的世界の高い階層にまで達することができるようになっています。本書はその過程を記したとても興味深い体験記です。
わたしは、もうすでに地球の引力の影響から自由になっていますし、地上的な物に対する欲望も克服できていますので、次の領域へ移動することができると言われました。
下層の霊界の霊体から抜けて上層の世界へ入ることは、しばしば死亡時に肉体から霊人が去るときに体験する眠りと似た深い眠りの間になされます。ただし、霊人が成長してもっと進歩し、霊妙さを増したときには、ずっと意識的な状態で行われます。
さらに、ある上層の世界になると、次の世界への移動は単に、服を着替えるように霊的殻を捨ててもっと霊妙な殻に変えることで行われるようになります。こうして、さまざまな段階を通過しながら地上的な性質や物質的な性質をその殻から喪失させて魂は進歩し続け、地球の霊界を抜けて太陽系の霊界内へ入ってゆくのです。
わたしにそれが起こったのは、地球への訪問を終えて帰還したときです。奇妙な尋常ならざる感覚をともなう圧迫感を感じ無気力になったのです。それは何か脳が麻痺したような感じで、ただ眠いというのとは違っていました。「たそがれの国」の自分の小さな部屋へ引きこもり、ソファーに身を投げ出したと思ったら瞬く間に、夢も見ないで死んだように無意識の眠りに入りました。この状態で、地上で言えば約二週間が過ぎ、その間にわたしは歪んだアストラル体を脱いで、ずっと純粋で明るい霊的殻をもった新生児みたいになったのです。それは自分の中の悪を克服しようとする努力が作り出したものです。ただし、自分は幼児として生まれたわけではなく、成熟した完全な成人として生まれ変わったのです。
(P.131-132)
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ここで使われている「生まれ変わり」という文言は、もちろん霊が物質界(この世)へ生まれたという意味ではなく、霊的世界の低い階層から高い階層へと進化を遂げたという意味です。この世での死は霊が肉体から抜け出すことですが、あの世でも似たような段階を経て霊は進化し高い階層へと進んでいきます。
霊は霊的世界でも進化を続けていきます。そうするとフランチェッツォが下線で述べたとおり、いずれ地球圏の霊的世界を突き抜けて太陽系全体を包含する規模の霊的世界へと入っていくことになります。図では“霊界・メンタル界”に相当する階層です。この世界にまで達すると、他の惑星霊界の霊的存在との交流が可能になり、霊の活動範囲がいよいよ宇宙規模になってくるのです。宇宙に存在する天体はどれも地球と同じように霊的世界を持っており、当然それぞれに霊的存在が活動しています。
このことについて、次のページでも紹介する『ベールの彼方の生活』の第一巻に興味深い霊界通信がありますので引用します。これは霊的世界の高い階層、図表では“神界”にまで進化している霊からの通信で、霊的世界は私たちが想像するよりも広大無辺で複雑な世界であると述べています。私たちの知っている物的宇宙も気が遠くなるほど広大ですが、霊的宇宙はそれよりもさらに広大です。横の広がりに加え、縦の奥行き(階層・次元)が加わるからです。
しかし、向上して行くと事情は一段と複雑となってまいります。地球に属するそうした幾つかの界層に加えて、太陽系の他の惑星一つ一つが同じように霊的界層を幾つも持っているからです。地球から遠く離れて行くと、地球圏の霊界と一ばん近くの惑星の霊界とが互いに融合し合う領域に至ります。各惑星にも地球と同じように霊的存在による管理が行き届いておりますから、それだけ複雑さが増すわけです。ここまで来ると、霊界の探求が地上の熱心な方がお考えになるほどそう簡単に出来るものでないことが判り始めます。
ちなみに太陽を中心に置いてそのまわりに適当に惑星を配置した太陽系の構図を画いてみて下さい。それから、まず地球のまわりに、さよう、百個ほどの円を画きます。同じことを木星、火星、金星、その他にも行います。太陽にも同じようにして下さい。これで、神界までも探求の手を広げることの出来る、吾々の汲めども尽きぬ興味のある深遠な事情が大ざっぱながら判っていただけるでしょう。
しかし、事はそれでおしまいではありません。いま太陽について行ったことを他の恒星とその惑星についても当てはめてみなくてはなりません。これで、あなたがこちらへお出でになったら知的探求の世界が無限に広がっていくと述べた真意が理解していただけるでしょう。
(P.230-231)
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これまで述べて来た霊的界層にはそれぞれの程度に応じた霊魂が存在し、真理を体得するにつれて一界また一界と、低い界から高い界へ向けて進化して行く。そして、さきに述べたように、そうやって向上していくうちにいつかは、少なくとも二つ以上の惑星の霊界が重なり合った段階に到達する。さらに向上すると今度は二つ以上の恒星の霊界が重なり合うほどの直径をもつ界層に至る。つまり太陽系の惑星はおろか、二つ以上の太陽系まで包含してしまうほどの広大な世界に至る。そこにもその次元に相応しい崇高さと神聖さと霊力を具えた霊魂が存在し、その範囲に包含された全ての世界へ向けて、霊的・物的の区別なく、影響力を行使している。ご承知のとおり吾々はようやく惑星より恒星へ、そして恒星よりその恒星の仲間へと進化して来たところです。その先にはまだまだ荘厳にして驚異的な世界が控えておりますが、この第十界の住民たる吾々にはその真相はほとんど判らないし、確実なことは何一つ判らないという有様です。
(P.235-236)
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上記の引用文について少し補足します。文中に“第十界”という言葉が出てきますが、これはこの通信霊が霊的世界を15の段階に分けているからです。これは私たちが虹の色をおおまかに7つの色に分けているのと同じで、私たちに霊的世界の様子を判り易く伝えるための便宜的表現です。他の霊はそこを7つの段階に分けている場合もあり、上で示した図表の左欄のように、物質界(地球)・幽界・霊界・神界と、おおまかに4つ世界に分ける場合もあります。しかし実際は虹の色が無限であるのと同じように、霊的世界も無限の次元・階層に分かれています。なお、“霊界”という言葉は死後の世界を総称する意味合いで使われていますが、心霊学的には死後の世界における霊的階層の“ある段階”を指す場合もあります。
私たちは死後も生命活動を続けます。はじめは地球圏の霊的階層(幽界)に落ち着きますが、上記での霊たちの通信にあるように、次第に進化していくと太陽系全体を包含する霊的階層(霊界)まで進んでいくことになります。そしてさらに進化していくと、今度は恒星間を包含する広大な規模の霊的階層(神界)にまで至ります。霊は進化すればするほど活動範囲や影響力が広大になっていくのです。まさに私たちは一人一人が霊的な冒険者であり、自らの力で新天地の開拓に挑んでいるのです。
しかし、中にはその高い階層へと進むことのできない霊もいます。能力や資質が足りなかったり、負のカルマが清算できていなかったりする場合です。このような霊はいずれ地上界へと生まれ変わって足りない能力や資質の発現・鍛錬に励んだり、負のカルマを苦しみの人生の中で解消していくことになります。このことは今の私たちにそのまま当てはめることができます。
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■私たちは死後、人生の総点検を受ける
それではこのページの最後に、私たち地上の人間がぜひ知っておくべき事実を紹介しておきます。それは、“私たちは死後において地上人生の総点検を受けることになる”ということです。臨死体験を語る書籍などで「これまでの人生を追体験し、自分の行為の影響を他人の立場から観察した」という体験内容があることを知っている方もいると思います。それと基本的には同じですが、死後の世界では自らの指導霊が立会いの下でそれは行われ、自分自身の後々の活動に影響を及ぼすことになります。
そのことについて、『タイタニック沈没から始まった永遠の旅』の中に次のような一文があります。本書はイギリス人のウィリアム・ステッドというジャーナリストが死後に送ってきた霊界通信です。彼はタイタニック号の沈没で命を落としたのですが、自らの死後の様子や体験の概略を本書に記しています。テンポよく簡潔な文章で死後の世界の在り様を伝えていますので、初めて死後の世界に関する書籍を読まれるような方には最適な一冊です。
ステッドはその様子を次のように語ります。
この本格的な霊の世界に定住するようになって間もなく、品性卑しからぬ指導霊によるインタビューを受けます。地上時代の言動の全記録を総点検しながら、その方と是非を論じ合います。理由と動機とその結果が分析されます。ごまかしは利きません。大きい出来事も、小さい内緒事も、すべてが映像として残っており、何一つ見逃されることはありません。行為に出たものだけではなく、心に宿したことも、ちゃんと残っております。
一人ずつインタビューされます。そして償うべきこと――思慮を欠いた判断、不親切な行為、人を傷つけた言葉など、直接の影響を及ぼしたことに対する裁断が下されます。
(P.127)
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私たちの一挙手一投足は細大漏らさず地球を取り巻く霊的大気の中に記録されています。いわゆる“アカシックレコード・アカシャ年代記”として知られている記録庫です。それにより、死後において自分や他人の地上人生の細かな点まで追想・追体験することが可能になります。
このように、死後において私たちは自らの人生評価を下さねばなりません。当然自分の立場だけでなく、影響を与えた他人の立場で自らの言動や行為の影響を知ることになります。自分の行為が誰かの役に立ったことを知って嬉しくなるかもしれませんし、逆に自らの発言によって誰かを傷つけていたことを知って落ち込むかもしれません。このような事実があるということを知れば、日々の生活においての行為や発言は、それがどのような影響を周囲に及ぼすことになるのかを想像力を働かせて思慮深く行う必要があることが分かります。
この時の評価によって、その後の霊的世界での活動内容が変わってきます。それは大きく分けて三つあるようです。一つ目は、今までの努力に対し良い評価を得てより高い階層へと進化していく。二つ目は、死後に落ち着くことになった霊的階層に留まり、そこで得られる学びや経験を積んだり、あるいは地上世界に指導霊として派遣され、人間の背後霊として働き自らのカルマの解消を図る。三つ目は、地上への再生、つまり生まれ変わって新たな地上人生を経験する。……などです。
霊的世界ではこのような形で霊としての成長度の評価が節目節目の段階で行われ、これまでの努力が報われてより高い階層へ進んで行くか、あるいは上層界へ進化していくために必要な資格を得るために指導霊として、または地上へ生まれ変わって修行するか、という判断が行われているようです。
私たちは必要ならば何度でもこの世に生を受け、体験を積み重ねて霊的な経験値を積むことで、より高い霊界の階層へと進化成長していきます。それが霊としての私たちに宿命付けられていると言ってもよいかもしれません。自らの向上心が自分自身を苦しみの地上界へと誘ったのです。ここが霊界の高みへ昇っていくために必要な様々な経験や教訓を授けてくれることを知っているからです。
しっかりと人生を生き抜き、社会や人々に対し自分を役立てることに勤しんだ人は速やかな霊的成長がもたらされます。反対に自殺した人や利己的な生き方に終始した人は当然足踏みしてしまいます。そしていずれ、再び生まれ変わって同じ試練や課題に直面することになってしまうのです。どちらを選ぶかは私たち自身であり、誰の所為にもできません。
私たちの究極の目的は霊的成長であり、地上人生はそれを叶えてくれる手段なのです。霊界には地上への誕生を望む霊たちがたくさんいます。なかにはそれがなかなか叶えられない霊たちもいるのです。そのような中で、せっかく頂いた機会を自殺という行為によって失うのは非常に惜しいと言わざるを得ません。ですから、どんなに苦しくても精一杯生きていくべきではないでしょうか?それが私たちを成長させてくれる糧になるからです。次の地上生活の機会がすぐに得られるとは限らないのです。
霊的存在としての生命活動が顕幽を超えて永遠に続くという事実がある以上、私たちは何らかの困難に直面したとき、その苦しみは一時的なものであり必ず終わりが来ること、そしてこの経験はいつかは報われるという信念を持つことが必要です。その困難こそ、自分に足りない何かを学ぶために用意された神意だからです。
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