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■ひとくち霊訓のログ
2012年にトップページに掲載していた「ひとくち霊訓」の過去ログです。読まれた方にとって少しでも霊的啓発・高揚になれば幸いです。
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■2012年01月号
日曜日
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どんな魂も一人に捨て置かれることはありません。ただ、新しい門をくぐる時は、一人です。魂はすべて、生命の階段を次々と通過せねばなりません。その時、前進の決断の力を与えるものは、前方をかくしている霧、つまりこの孤独です。 他界に入った魂は、初めのうちは子供のように自己満足をしています。何事も出来ないものはない、今後の人生も物の数ではないと。孤独を味わい、初めて、力の本当の源泉がどこにあるかが分かります。すると、今度は魂のほうから進んで孤独を要求します。永い間の目隠しがとれて、魂が生き生きと目覚める時、きまって孤独にあるからです。このことは皆さんにも当てはまります。いま肉で目が塞がれ、一人きりで置かれているのは、皆さんの中なる力と、神への信を開かんがため、このもくろみのためです。
(『ホワイト・イーグル霊言集』 P.66-67)
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月曜日
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問:霊界にも自分を役立てる機会があるのでしょうか。
答:ありますとも!地上よりはるかに多くの機会があります。こちらには、あなた方の理解を超えた問題がいろいろとあります。霊的宇宙のいたるところに存在する無数の霊――病める霊、幼い霊、忘れ去られた霊、孤独な霊、いびつな霊、無知な霊、こうした不幸な霊の面倒を見なければならないのです。なぜこんな厄介なことになるのか――それはあなた方の世界がそういう霊を送り込んでくるからです。
(『シルバー・バーチの霊訓 第八巻』 P.109)
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火曜日
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あなた方の世界では、己の責任を逃れてやれやれ一安心という思い入れをしますが、私たちの世界では、それは許されないのです。あなた方の世界でも、姿・形を変えてその責任は負わなければならないのですが、一時のごまかしでヤレヤレという安心感があるでしょう。そのごまかしが、形を変えて必ず現われてくるのです。それを因果というでしょう。悪いことをしても、あなた方の世界では、ごまかしがきいたとおもいますが、必ず姿を変えて同じだけの償いをさせられるのです。 そこに天地の道があるのです。 善いことをすれば、善い結果が形を変えて生じ、悪いことをすれば、悪い形でそれが現れてきます。多くの場合、悪いことはなるたけごまかすために、自己を飾りたてます。それはいらないことです。 むしろ真実の姿を曝(さら)け出して、その償いを受けるのです。 お金を借りても利息をつけて返すでしょう。因縁もまた、利息がついてくるのです。
(『梶さんの霊界通信』 P.205-206)
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水曜日
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問:ではなぜ、魂は肉体に閉じ込められたのでしょうか
答:種子が暗い土の中に埋められ、そこから勢いよく成長するための養分を摂取するのと同じです。人間の生命の種子も霊的生命を勢いよく成長させるための体験を得るために、肉体という暗い身体に閉じ込められるのです。 人生体験も生命機構の中の一環なのです。およそ有り難いとは思えない体験――悲しみ、辛い思い、嘆き、失望、苦しみ、痛み――こうしたものは魂にとっては貴重なのです。 しかし、それを体験している最中にはそうは思えません。こちらに来て地上生活を振り返り、部分的にではなく全体として眺めた時にはじめて、人生の価値が鮮明に理解できるのです。逆境の中にあってこそ性格が鍛えられるのです。悲哀を体験してこそ魂が強化されるのです。
(『霊性進化の道しるべ』 P.92-93)
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木曜日
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死者の出てくる夢を軽視してはいけない。そういう夢には必ず意味がある。ただし、夢の内容からそのまま判断できるような意味とは限らない。二つの世界のあいだのドアはひじょうに狭いので、思考はそこを通り抜けるとき、いくらか削ぎ落とされてしまうことが多いからだ。だが、死者の出てくる夢にはたしかに意味がある。われわれはそういう形できみたちに連絡をとっているのだ。
(『死者Xから来た手紙』 P.67)
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金曜日
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地上に生を享(う)ける時、地上で何を為すべきかは魂自身はちゃんと自覚しております。何も知らずに誕生してくるのではありません。自分にとって必要な向上進化を促進するにはこういう環境でこういう身体に宿るのが最も効果的であると判断して、魂自らが選ぶのです。ただ、実際に肉体に宿ってしまうと、その肉体の鈍重さのために誕生前の自覚が魂の奥に潜んだまま、通常意識に上がってこないだけの話です。
(『シルバー・バーチの霊訓 第一巻』 P.38)
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土曜日
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問:(霊界の)動物界にはどんな種類の動物がいるのでしょうか。
答:地上で可愛がられている動物、親しまれている動物、大切にされている動物、人間とほとんど同等に扱われて知性や思考力を刺戟(しげき)された動物のすべてがおります。そうした動物は、飼い主の手から離れたことでさびしがったり迷ったりするといけないので動物界に連れてこられて、他の動物といっしょに暮らしながら、動物の専門家の特別の看護を受けます。そこには動物をよろこばせるものが何でも揃っており、やりたいことが何でも出来るので、イライラすることがありません。そして時には地上にいる飼い主の家の雰囲気内まで連れてこられ、しばしその懐かしい雰囲気を味わいます。心霊知識のない人が自分の飼っていた犬を見たとか猫が出たとか言ってさわぐのはそんな時のことです。なんとなくあの辺にいたような気がするといった程度にすぎないのですが、地上の動物の目にはちゃんと見えています。霊視能力が発達していますから……。
(『ペットが死ぬとき』 P.147-148)
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■2012年02月号
日曜日
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暗いものに心を向ければ、その暗いものが生気をもちます。それから心を離せば、その暗いものは生気を失い、次第に死にます。人はこう言います、「私は真実なものに背中を向けるつもりはありません、それに真向かわねばならないのです」と。ですが、皆さん。真実なものとは光です。真実なものとは常に前向きのものであり、善であり、純潔であり、真です。真実ならざるものとは、いわゆる悪です。ですから、常に善に、美に、愛に心を向けなさい。 イエスと弟子達が、死んだ動物の傍らを通り過ぎた時の話を覚えていますか。弟子達は死体を見て恐れをなし、叫び声を上げました。イエスはそこに何も嫌なものは見なかったのですね。彼は言いました「何と歯の白いこと」と。 何事も、そこに美しいものがあります。それを見なさい。それだけを思いなさい。人生に対するこの美しい態度があれば、聖なる力が通り易くなります。不思議な治癒力がそこに働きます。
(『自己を癒す道』 P.39-40)
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月曜日
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いいですか、ほかのことは信じていただかなくても結構ですから、次のことだけは信じてください。あなたが生涯でたった一人の魂に光明を見出させてあげることができたら、たった一人の人間の飢えを満たし、のどの渇きをうるおしてあげることができたら、たった一人の人間の肩の荷を軽くしてあげ、前途に横たわる石ころを取り除いてあげることができたら、それは地上の全財産にも勝る貴重な行為をしたことになるのです。
(『地上人類への最高の福音』 P.38-39)
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火曜日
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育てるは神なり。まわりの事や状況やあなたの思ったとおりに行わない人たちに心を乱す者のようであってはならない。あなたは、神の愛が映し出されるための水路となれるだけなのだ。というのも、神は自らの道で、自らの方法でお働きになるのであり、心乱すことは神がなされようとしていることについて、失意と幻滅を生じるのみだからである。 誤りを犯すものに対して穏やかに、優しく語りかけなさい。あなたは彼らの誘惑の何たるかも、彼らの理解の小ささがどれほどかも知らないからだ。人の行うあれこれの活動を裁いてはならない。むしろ、あなたの中にあるあの光が彼らの生活の中にも照り輝くように祈りなさい。それは、人の子ら、娘らが神の道を知るための方法である。この俗界において、自分自身をさえ疑うほどに疑惑と恐怖が起こる時代が万人に訪れている。主がその聖なる宮の中におられ、全てが善きことを知ることによって、そのような気持ちを捨て去ることは容易である。
(『地球卒業者18人の過去世』 P.217)
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水曜日
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蒔いたタネが実りをもたらすのです。タネは正直です。トマトのタネを蒔いてレタスができることはありません。蒔かれた原因(たね)は、大自然の摂理に正直にしたがって、それ相当の結果(みのり)をもたらします。自然界について言えることは、そのまま人間界にも当てはまります。 利己主義のタネを蒔いた人は利己主義の報いを刈り取らねばなりません。罪を犯した人はその罪の報いを刈り取らねばなりません。寛容性のない人、かたくなな人、利己的な人は、非寛容性と頑固と利己主義の結果を刈り取らねばなりません。この摂理だけは変えられません。永遠に不変です。いかなる宗教的儀式、いかなる讃歌、いかなる祈り、いかなる聖典をもってしても、その因果律に干渉して都合のよいように変えることはできません。
(『霊的新時代の到来』 P.75-76)
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木曜日
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永遠に生命が続いていく死後の世界の真実を、もし現世の人々が理解すれば、物質的なものにはあまり価値を置かなくなるだろう。金銭とか財産とかの貪欲な獲得などは、何の意味もなくなるだろう。それは実質のない、泡を追いかけるようなもので、手に入れたとしても、いずれ、はじけて消え失せるものなのだ。我々は、所有している何物も、一緒に持って、こちらに来ることはできないのだ。ただ、愛だけは、こちらにやって来たとき、親類や知人と交換するだけでなく、こちらで助けを必要とする人々に対するものも含めて、神に考慮されるのだ。 もし人々が、神から与えられた才能を地上の生活で活用し、その実績によって彼岸と呼ばれている場所で、善かれ悪しかれ、本人たちの未来が作り上げられていくという、その事実を教えられていれば、彼らは物質世界の物事に余り注意を払わなくなるだろう。
(『ゴードンより愛をこめて』 P.34-35)
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金曜日
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問:そちら(霊界・死後の世界)へ行った人はどんな風に感じるのでしょう?例えば後悔の念というものを強く感じるのでしょうか。
答:いちばん残念に思うことは、やるべきことをやらずに終わったことです。あなたもこちらへお出でになれば分かります。きちんと成し遂げたこと、やるべきだったのに怠ったこと、そうしたことが逐一わかります。逃してしまったチャンスが幾つもあったことを知って後悔するのです。
(『シルバーバーチは語る』 P.336)
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土曜日
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地球を取り巻くように存在する物的波動のエーテルの界層は、“地縛霊”と呼ばれるスピリットの住む暗黒の世界です。利己主義と無知が生み出す暗黒です。そこから脱け出すには霊的理解力(悟り)が芽生えて、霊的視力が使えるようにならなければならないのですが、そのためにはまず、生命の実相について知り、自分の幸せだけを求める信仰を捨てなくてはなりません。 (…中略…) その暗黒界の様相は、実際に見ていただくほかはありません。私は二人の親戚の者に案内してもらったのですが、自殺者ばかりが集まっている境涯、狂信者が通う教会ばかりが立ち並ぶ境涯、スラム街、拝金主義者ばかりの街などなど、それはそれは凄絶をきわめております。しかし、その事実自体も問題ですが、もっと問題なのは、そうした境涯のスピリットの出す波動が、地上の類似した人間の波動と合致して、生活を破綻に追いやっている現実です。
(『迷える霊との対話』 P.673)
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■2012年03月号
日曜日
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地上生活は、その人でなければならない場所に、またその人が最善をなすにふさわしい場所に、各人が適確に置かれている、このことをしかと肝に銘じておかれることである。無名の者の方が、知名の士よりも、一層人類の進化に貢献しているかもしれないのである。霊性進化の究極の目的は個人の鍛錬にある、その鍛錬によって神の愛を放つ一個の強力な中心となること、ここにある。従って、霊性進化の徒は自己を振りかざす華やかさを求めない、ひたすら自己を通じて、愛の息が外へいのちとなり出ていく、これだけを求める。
(『霊性進化の道』 P.24-25)
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月曜日
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あなた方もいつかはこちらの世界(霊界・死後の世界)へ来られるわけですが、来てみれば、感謝なさるのはそういう辛い体験の方なのです。視点が変わることによって、暗く思えた体験こそ、そのさ中にある時は有り難く思えなかったけれども、霊の成長をいちばん促進してくれていることを知るからです。今ここでそれを証明してさしあげることはできませんが、こちらへお出でになれば、みずから得心なさることでしょう。
(『霊的新時代の到来』 P.200)
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火曜日
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満朋(管理人注:著者の名前)、幽界入りしたからといって、すぐに独りで飛べるもの考えたら大まちがいぢゃ。空をとべるまでには、それ相当の修行が必要なんじゃぞ。幽界に来たからといってそうやすやすと何事もできるというわけにはまいらん。それにはまづ第一に現界における心掛けが肝要なんぢゃ。それがやはり一つの修行になる。ぢゃから現界においてもよく神に奉仕し、世のため人のために一心にはたらかねば相ならぬのぢゃ。(…中略…)たとえ薄紙一枚の善でもよい、その善を日々月々たゆみなく積みかさねていくと、やがてそれが大きい善の山になるのぢゃ。その善の山を背負って幽界に来てこそ、はじめてそなたの躰も光を発するに至るのぢゃ。光を放つ躰となってはじめて、一人でこの空中をとんであるくことも可能になるのぢゃ。
(『魂の幽霊界行脚』 P.21-22)
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水曜日
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問:各国の指導的立場にある人々の背後でも指導霊が働いているのでしょうか。
答:すべての国にそれなりの計画が用意されております。すべての生命に計画があるからです。地上で国家的な仕事に邁進してきた人は、死の過程をへたあとも、それをやめてしまうわけではありません。そんなことで愛国心が消えるものではありません。愛国心は純粋な愛の表現ですから、その人の力は、引き続きかつての母国のために使用されます。 さらに向上すれば、国家的意識ないし国境的概念が消えて、すべては神の子という共通の霊的認識が芽生えてきます。しかし私どもは、あらゆる形での愛を有効に活用します。少なくとも一個の国家を愛し、それに身を捧げんとする人間の方が、愛の意識が芽生えず、役に立つことを何一つしない人間よりはましです。
(『古代霊シルバーバーチ 不滅の真理』 P.114-115)
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木曜日
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私達の家は地上で自分がした行為によって作ります。そのお話をしてみます。地上でちょっとした犠牲を払って、ささやかな善行をしますでしょう。あの一つ一つが自分の家を、きれいな家を作ってくれました。それを更に美しい家にしてくれました。自分のした行為、思い、その一つ一つが自分の住むパラダイス、家、庭、それらを美しいものにする元になりました。
地上にいる友人が何か過ちを犯した場合、他界にいるその人を愛する霊の心が傷つけられるなら、知られないようにヴェールがかけられます。もしその事が霊の幸せになるのなら、ヴェールははずされます。その事が霊を悲しがらせ、霊界での進歩の障害になるようなら、霊の耳には入れられません。
こう言うことが出来るんだよ――もし君がだね、当界にいる誰か、生前に好きだったその人のことを好ましく考えるとするね、すると、その想念は当界に伝わる。すると、我々はそれを直ぐキャッチするんだよ。
(『THE WAY OF LIFE 人間の生き方』 P.194,235,240)
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金曜日
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問:スピリチュアリズムの普及のために活躍しておられる人がとかく物的生活面で苦労が多いのはなぜでしょうか。
答:真理のために身を捧げる者は徹底的に試練を味わう必要があるからです。霊の大軍に所属する者はいかなる困難にも耐え、いかなる障害にも対処し、あらゆる問題を征服するだけの強さを身につけなければなりません。 はじめて遭遇した困難であっさりと参ってしまうような人間が霊の道具として役に立つでしょうか。最大の貢献をする道具は浄化の炎で鍛え上げなければなりません。それによって鋼鉄(はがね)の強さが身につきます。一見ただの挫折のように思えても、実際はみな計画された試練なのです。人を導こうとする者が安逸の生活をむさぼり、試練もストレスもなく嵐も困難も体験しないでいては、その後に待ちうける大事業に耐えうる性格も霊力も身につかないでしょう。
(『シルバー・バーチの霊訓 第二巻』 P.206)
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土曜日
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無くて七癖、七七四十九癖、悪い癖直して下されよ。天国へ行く鍵ぞ。直せば直しただけ外へひびくものが、かわって来るぞ。よくなってくるぞ。かわって来れば、外からくるもの、自分に来るもの、かわってくるぞ。よくなってくるぞ。幸となるぞ。よろこび満ち満つぞ。神みちみちて天国ぢゃ。一升桝もってきて一斗入れよと人民申しているが、神は一斗も二斗も入れてやりたいなれど、一升桝には一升しか入らん。大き桝もって来い。頂くには頂くだけの資格いるぞ。一歩づつ進め。一歩づつ絶えず進めよ。それより他に道はないのぢゃ。
今の自分の環境がどんなであろうと、それは事実であるぞ。境遇に不足申すなよ。現在を足場として境遇を美化し、善化してすすめ。其処にこそ神の光、よろこび現れるのぢゃ。逃げ道つくれば迷ひの道に入るぞ。楽に得たもの、楽に失う。
(『ひふみ神示 第27巻 春の巻』 第十二帖、第三一帖)
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■2012年04月号
日曜日
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いま皆さんの目には世界は混沌として映っています。皆さんはこう気付いておられる、人類の生命は嵐に揺すられる木の葉のようなもの、最後はどうなるのだろうと。しかし、人間生活の各部門の背後、政治家や政府の背後には、その民族の進歩のために働く偉大な方々がおられます。また、破局のように目に映る場合にも、肝に銘じておいていただきたいのは、そこにさえも大師が働いておいでになるということ、庭師のように刈り込み刀を手にお持ちになって――。また、皆さんは気の毒に思っておられるだろうが、しかと肝にとめていただきたいのは、かの苦しむ全ての人々に対して、大師がたも天使たちも想像を絶する深甚な愛と同情を寄せておいでになるということです。ですから、心を安んじていただきたい、目に見える状況の背後には、常に、その種族の安全のために働いている天界の組織があることを、心にとめていただきたい。
(『ホワイト・イーグルの霊示 天使と妖精』 P.42-43)
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月曜日
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皆さん方が進まれる道は決して容易ではありません。それは皆さんが、潜在的な霊的資質を開発するチャンスをみずから欲するだけの器量を具えていらっしゃるからです。神の使節に気楽な人生は有り得ません。進化と向上を求める者、地上の人間として到達しうるかぎりの高級界に波長を合わせんとする者にとって、安易な道は許されません。近道など有りません。酷(きび)しい試練と絶え間ない危機との遭遇を覚悟し、今たずさわっている仕事、それは実は――これがいつも議論のタネになるのですが――皆さんが地上へやってくる前にみずから志願されたものなのですが、それをあくまでも成就させんとする決意を要請されます。それは皆さんがみずから選択された道なのです。 霊的闘争における勝利はそう簡単には得られません。霊的なものが支配権を握るに至る過程は長くて過酷なものです。が、一度手中にすれが、それは永遠です。決して失われることはありません。霊の褒章は決して傷つきません。決してサビつきません。決して腐食しません。永遠に自分のものとなります。それは皆さんが、皆さん一人一人が、みずからの努力で勝ち取らねばならない、永遠の財産なのです。
(『シルバー・バーチの霊訓 第九巻』 P.155-156)
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火曜日
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こちら(霊界・死後の世界)へ来てびっくりしたことですが、その一つは人間があけすけに見えることです。勿論、すべての者にその力があるとは申しません。しかし、肉体の外被がなくなって霊魂がむき出しになると、本人の持っている性質がそのまま丸見えになるのです。この場合、その性質というのは人格なのですね。むき出しなんて俗な言葉ですが、ところがそのむき出しが、当界では大変な意味をもつのです。いえいえ、貴方がどんなに想像をたくましくなさっても、到底この事実の深刻さは分かって頂けませんわ。とにかく価値があるのは、ただ一つ本人の人格だけです。その外の財産、地位、職業たとえ牧師の聖職にしても何の意味も価値もないのです。
(『ジュリアの音信』 P.65-66)
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水曜日
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問:生きものは全て大霊が創造したものである以上、ビールスなども大霊がこしらえたものに相違ありません。それを殺虫剤や消毒剤などで無きものにしてしまうのは間違いでしょうか。
答:そうすべきだと考えてするのであれば、そうなさればよろしい。何事も、動機によって正否が決まります。地上世界はまだまだ未熟です。不完全で、完全へ向けて発展しているところです。その道程には幾多の困難や試練や障害や難題が横たわります。それらにどう対処していくかによって人類の進歩が決まります。 そもそも人間の生命を奪うようなビールスが発生するということは、人類の生き方がどこか間違っているこの証拠です。人類の生き方は地上の環境のすべてに反映するのです。生き方を正せば、そういう克服できそうにない問題は生じなくなります。人類の行動と環境との間には不離の関係があるのです。
(『古代霊シルバーバーチ 最後の啓示』 P.82-83)
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木曜日
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(管理人注:霊界の指導霊が本書の通信霊アンドレオに対して)あなたがここ(霊界・死後の世界)へ引き取られてきますと、すぐにわたしは指導省に頼んであなたの(地上時代の)調書を取り寄せ、注意深く調べてみました。不用意、やり過ぎ、無思慮が数多くあきれるほどありましたが、それでも開業医十五年間に六千人ばかりの貧者に無料の処方箋を与えておられます。あなたはこうした賞賛すべき行為を、ちょいちょいおもしろ半分でやられましたが、冗談からでさえ真実の善行為が前途に祝福の種まきをしていたのです。いまはあなたも気づかれていることでしょう。あなたから情けを受けた人の中で十五人ばかりが恩を忘れずに、ここであなたのため弁護をつづけています。特にかかわりがあるわけでもないものに施した善でさえ、自分に帰ってくるものであることをいい添えておきます。
(『われらの住み家 ある霊界集団の物語り』 P.76)
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金曜日
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光の中ばかりで暮らしておれば光の有難さは分かりません。光明が有難く思われるのは暗闇の中で苦しめばこそです。こちらの世界で幸せが味わえる資格を身につけるためには、そちらの世界での苦労を十分に体験しなければなりません。果たすべき義務を中途で投げ出してこちらへ来た者は、こちらで用意している喜びを味わうことはできません。少なくとも永続的な幸せは得られません。 人生の目的は至って単純です。霊の世界から物質の世界へ来て、再び霊の世界へ戻った時にあなたを待ち受けている仕事と楽しみを享受する資格を身につけるために、さまざまな体験を積むということです。そのための道具としての身体をこの地上で授けてもらうというわけです。この地上があなたにとって死後の生活に備える絶好の教訓を与えてくれる場所なのです。その教訓を学ばずに終われば、地上生活は無駄になり、次の段階へ進む資格が得られないことになります。このことは地上だけでなく、私どもの霊の世界でも同じことです。
(『シルバー・バーチの霊訓 第一巻』 P.44-45)
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土曜日
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結婚の問題だが、私の観るところでは、地上では二人の男女による契約という形をとり、存命中あるいはその間の一時期を共に過ごすわけだが、どちらかの死によって法律的には解消となる。そこで、霊界へ来て再び夫婦となるか否かは選択の問題であって、強制的なものではない。 その点、天界の結婚はまったく趣きが異なる。互いの魂の奥底から湧き出る愛に始まり、陰と陽の二つの原理が融和し、切っても切れない真実のきずなができあがる。これは法律の及ぶところではない。いわば神を仲人とした結婚であり、したがって永遠である。“天界では全て者が結婚するのか”という質問をよく受けるが、私は確信をもって“イエス”と答える。皆いずれは誰かと結ばれる。地上であろうが天国であろうが、神は孤独を喜ばれない。遅かれ早かれ必ず配偶者を見出すように意図されているのである。
(『スピリチュアリズムの真髄』 P.337)
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■2012年05月号
日曜日
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皆さんの中には、病気になったり、やがて老齢になったりの問題に直面する人がいます。また、挫折に直面したり、ひどく辛い仕事を耐えたり、失望落胆を経験する、ということがあります。皆たいていの人は自分は重荷を背負っていると感じています。で、人は自分のその重荷が消えれば、それでいいと思う、だがそういうものでしょうかな?いや、そうじゃありませんぞ。物事はすべてその価値をもっているものです、その向こう側にあるものを見ないといけません。この重荷で自分は何が教えて貰えるのか、それを祈りなさい。時には迷いも起こりましょうよ。「私は何をなすべきか。あれか、これか。留まろうか、あそこへ行こうか、こちらに行こうか」と。これらの疑問に対する私共の回答は次のとおり。神が貴方のすぐ目の前に置かれた仕事をしなさい。皆さんは次のように考えたことがおありかな。自分の仕事は神が自分のために置かれたのである、私の人格と霊的感性と才能を伸ばす機会を私に与えるために。また更に、自分がそれを手本のように行えば、それが他の人々の手助けとなる、このチャンスを持たせるためにも私に神はそれをお与えになったと。
(『ホワイト・イーグル 神への帰還』 P.84-85)
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月曜日
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問:建設的な目的にせよ、原子力を使うために核を分裂させなければなりませんが、それは自然界の調和の原理に違反し、人類自身にとっても危険なことではないでしょうか。
答:これは非常に難しい問題です。なぜかといえば、それには現在の地上人類に理解できない要素がたくさん含まれているからです。宇宙に調和の原理があり、それを人間が乱すことはできます。が、大自然の摂理の働きを止めたり変えたりすることはできません。わたしが言わんとしているのは、もしも原子核の分裂が不可能だったら、人間が核分裂を起こすことはできなかったということです。 このことに関連して間違いなく言えることは、この核分裂の発見は調和のとれた進化からズレているということです。つまり、まだその時機でなかった――人類の精神的ないし霊的成熟度が十分でなかったということです。もし十分であれば、原子エネルギーの使用にまつわるさまざまな問題は起きないはずです。この、とてつもない発見のおかげで、人類は霊的に受け入れる用意のできていないものを手にしてしまい、それがもとで、大変な危険の可能性を抱えてしまいました。が、各国の命運を握っている指導者たちが、霊的な叡智に目覚めれば解決できるでしょう。というよりは、それしか道はないでしょう。
(『霊的新時代の到来』 P.222)
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火曜日
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(管理人注:この世の父親とあの世の息子との霊界通信)
問:幽界へ行ったものがどうして自覚が速かったり、遅かったりするのだろう。お前の考えでなく指導役の方々に聞いて返事をしてもらえないか?
答:伺ってみるとやはり信念の強いものが早く自覚するそうで、その点において近代日本人の霊魂は甚だ成績が悪いようです。現に僕なども自分の死んだことも自覚せず、また自分の葬式の営まれたことも知らずにいたくらいですからね……。
問:唯物論者――つまり死後個性の存続を信じない連中は死後どうなるかな?
答:非常に自覚が遅いそうです。
問:一つこれから自覚していない人たちの実況をしてくれないか?
答:承知しました。――今その一部を見せてもらいましたが、イヤどうもなかなか陰惨ですね。男も女もみな裸で、暗いところにゴロゴロして、いかにも体がだるそうです。僕は気持ちが良くないというよりか、むしろ気の毒の感に打たれ、この連中は一体いつまでこの状態に置かれているのですか、とお爺さん(指導霊の一人)に聞いてみますと、この状態は必ずしも永久に続くのではない。中には間もなく自覚する者もある。自覚する、しないは本人の心がけ次第で、他から如何ともし難いのだ、という返事でした……。
(『新樹の通信』 P.56-57)
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水曜日
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問:憑依現象のことですが、憑依される人間はそれなりの弱点をもっているからではないかと思っています。つまり、土のないところにタネを蒔いても芽は出ないはずなのです。
答:そうです。それは言えます。もともとその人間に潜在的な弱点がある、つまり例によって身体と精神と霊の関係が調和を欠いているのです。邪霊をひきつける何らかの条件があるということです。アルコールの摂りすぎである場合もありましょう。薬物中毒である場合もありましょう。度を越した虚栄心、ないしは利己心が要因となることもあります。そうした要素が媒体となって、地上世界の欲望を今一度満たしたがっている霊を引きつけます。意識的に取り憑く霊もいますし、無意識のうちに憑(かか)っている場合もあります。
(『シルバー・バーチの霊訓 第六巻』 P.151-152)
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木曜日
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伴侶や友人、師との出会いの時期は、貴女も何となくわかっていると思うのですが、やはり、決まっております。それだけ強い約束をしているのです。生まれてくる前に、大変、細かい事まで決めている場合が多いのです。この日、この時間、この場所に、というような、約束をしている場合もあるのです。 また、多少のずれは、よくある事ですが、出会うべき人には、やはり出会う事になります。そして結婚などの場合は、見合い、恋愛の違いはありません。これは、縁ある者同士の御霊(みたま)の性質で、自分達は、これこれ、この時期に、ある人に仲介人になってもらって、出会いましょう、と考えた上でのことで、恋愛よりも確実な方法を取って、「お見合い」となる場合でもあります。 (…中略…) また、結婚できない、と思っている人の中には、少なからず、もともと結婚する予定をしていない人もおります。その事を本人もよくわかっている場合もありますが、なぜ、結婚できないんだろうと、その予定を忘れている人もいるのです。良縁に恵まれない、というのではなく、もともと結婚しないという予定をたてている人もいるのです。
(『幸せを呼ぶ龍宮物語』 P.165-166)
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金曜日
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どうしても理解できないことは、これまでに授かった霊的真理を頼りとして“信念”をもつことです。根拠のない手前勝手な信念ではありません。スピリチュアリズムによって明らかになった霊的実在に得心がいき、その理解のもとに人生のすべてが大霊の愛と叡智によって支配されていて、自分もその中にあるのだということを確信する、そういう信念です。その信念をもつに至れば、自分および自分のまわりに何事が起きようと、それは大霊の思(おぼ)し召(め)しなのだという理解が生まれるはずです。 (…中略…) もしもその信念に迷いが生じた時は、その迷いをいったん鎮め、冷静な精神状態のもとで、それまでにあなたがたどってきた道を振り返り、大切な節目節目にかならず不思議に力が働いてそこまで導かれてきたことを、改めて確認することです。あなた方は、この地上にあってこうした素晴らしい霊的知識との出会いがあり、それが生涯を通じて導きの光となったということは、大変しあわせなことです。
(『古代霊シルバーバーチ 新たなる啓示』 P.138-139)
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土曜日
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こちら(霊界・死後の世界)では地上でのご縁がすべて生かされております。ふとした縁、行きずりの縁も意味があるものです。人生におけるあらゆる出会いが何らかの影響を及ぼしております。たまたま隣り合わせに腰かけた人と交わした会話、偶然の出会い、ふと買い求めた一冊の本、友人の紹介で握手を交わし、それきり生涯会うことのなかった人等々、すべてが記録され、考慮され、整合されて、必要に応じて利用されます。(…中略…) ですから、日常の行為の一つ、言葉の一つにも気をつけなくてはいけません。神経質になるのではなく、常に人の為を思いやる習慣を身につけることです。いつでも、どこでも親切の念を出し続ける習慣です。これは天界では大変重要なことで、それが衣服に明るさを、そして身体に光輝を与えるのです。
(『ベールの彼方の生活 第一巻』 P.169-170)
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■2012年06月号
日曜日
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啓示は受けるだけじゃ駄目です、その素朴な教えを自分のものにしてしまいませんとね。あなたはそれを完全に吸収して、生活に生かさねばなりません。本を読むだけじゃ何にもなりません。人の話を聞くだけじゃ何にもなりません。真理は体で感じとってしまわねば。真理を知ったら、それを深くハートの内部で己がものとせねばなりません。皆さんがその光明を、兄弟たちへの奉仕の道で光となし得た時、更に深い秘教に目を開く用意が出来たということなのです。
(『ホワイト・イーグルの霊示 光への道』 P.166-167)
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月曜日
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問:朝目覚めて、睡眠中の霊界での体験を思い出すことがあるのでしょうか。
答:睡眠中あなたは肉体から抜け出ていますから、当然、脳から離れております。脳はあなたを物質界に繋ぎつけるための中枢器官です。それから解放されたあなたは、魂の発達程度に応じた波動の世界で体験を得ます。その時点では意識をもって行動しているのですが、朝肉体に戻ってくると、もうその体験は思い出せません。その原因は、脳が狭すぎるからです。小は大を兼ねることができません。それで歪みを生ずるのです。 それは、例えて言えば、小さな袋の中に無理やり物を詰め込むようなものです。袋には容量というものがあります。無理やり詰め込むと、入るには入っても、形が歪んでしまいます。それと同じことが脳の中で生ずるのです。ただし、霊格がある段階以上に発達してくると、話は別です。霊的体験を思い出すように脳を訓練することが出来るようになります。
(『シルバーバーチは語る』 P.215)
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火曜日
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霊界での晩餐会とは驚きでしょう。ところで、こんなときの地上人の楽しみは食事を食べたりワインを飲んだりすることでしょうが、霊人の場合にはそういった物は必要ないのでしょうか?そうではありません。わたしたち霊人にも食事が必要ですし、実際に頂きます。ただ、その食事は物質的ではないのです。ここには動物の肉料理のような物は一切ありません。とは言っても下層で地に縛られている霊たちのなかには、いまだ肉体を持つ地上人を通してその動物的食欲を満たさんとする者もいますが。 この第二領域で最も美味しい果物は、透明で食べるや否やたちまち口の中でとろけてしまいます。ワインもありますが、地上の酒のように酔うことはありませんし、それ以上渇きを覚えることもありません。ここには食欲を満たすようなものはありませんが、微妙な味のケーキとふっくらしたパンがあります。こんな風な飲食物とワインが晩餐会の食事でした。 一つ告白しますと、霊界で初めて見た、あるかわいらしい果物は、これほど美味しいと思ったことはありませんでした。それは霊界で他人を助ける行為によってもたらされる、まさしく労力の果実であると告げられました。
(『スピリットランド』 P.140-141)
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水曜日
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残念ながら地上世界は、今なお物質万能主義の悪弊から脱け切れずにいます。すべてを金銭的感覚で捉えようとします。財産の多い人ほど偉い人と見なします。人間性ではなく財産と地位と肩書きと家柄によってランクづけします。実際にはまったく永続性のないものばかりです。虚飾にすぎません。実在ではないのです。 本当の価値の尺度は霊的成長度です。それは、その人の生活、日常の行為・言動によって、みずから成就していくもので、それがすべてであり、それしかないのです。お金で徳は買えません。お金で霊的成長は買えません。お金で霊格は高められません。そうしたものは各自が各自の努力で獲得しなければなりません。粗末な家で生まれたか、御殿のような家で生まれたかは、霊的成長には何の関係もありません。
(『地上人類への最高の福音』 P.246-247)
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木曜日
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豊かな者たちよ、このことを少し考えてみてください。できる限り不幸な者たちを助けてあげてください。神がいつの日か、あなたの行った善に対する報いを与えてくれるように、また、あなたたちが住んでいた地上から出て来る時、あなたたちに感謝する霊たちが並んであなたたちをより幸せな世界へ迎えてくれるように、他人に対して与えてください。 私(管理人注:この文章の通信霊)の最後の人生において、役に立つことができた相手と、死後の世界において再会した時の喜びをあなたたちも知ることができたなら。 ですから、あなたたちの隣人を愛してください。自分たちを愛するように愛してください。なぜなら、不幸な者を寄せつけまいとする時、あなたたちは過去の友人、父親、兄弟を自分から遠ざけようとしているのかもしれないのだということをすでに知っているからです。だから、霊の世界に戻って不幸な者たちが誰であったのかを知った時、どんな失望を感じることになるか考えてみてください。
(『スピリティズムによる福音』 P.236-237)
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金曜日
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地上の人間は肩書きやラベルや名称を崇めるのがお好きです。が、クリスチャンを名のろうと無神論者を名のろうと、何の違いもありません。大切なのは実生活において何をするかです。仮りにここに宗教など自分には無縁だと言う人がいるとしましょう。神の名を唱えても頭を下げようとしません。しかし性格は正直で、人のためになることを進んで行い、弱い者に味方し、足の不自由な犬が柵を越えるのさえ手助けしてやり、打ちひしがれた人々の身になって考え、困った人を援助しようと心がけます。もう一人は見たところ実に信心深い人です。あらゆる教義、あらゆる教説を受け入れ、信仰上の礼儀作法には口やかましく気を使います。しかし心の奥に慈悲心は無く、生活の中において何ら人のためになることをしません。前者のほうが後者よりはるかに宗教的人物を言えます。
(『シルバー・バーチの霊訓 第三巻』 P.190)
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土曜日
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問:着物の話をされましたが、そちら(霊界・死後の世界)で着る衣服は地上で着る衣服の写しですか、それとも新しく誂(あつら)えるわけですか。
答:結局は両方ということになるでしょう。地上でも衣服を裏返したりして、見かけの上ではすっかり新しいものに作り変えることが出来るでしょう。あれと同じようなことがこちらでも行われます。同じといっても、やり方はこちら独特のものです。つまり地上で気に入っていた衣服への執着が強く残っているので、その念を型にして拵えるわけです。もちろん大切なのは意念の働きです。こちらでは何かにつけ意念というものが一ばん大切です。ですが何もかも意念でやってしまうのかというと、そうではありません。たとえば地上からやってきたばかりの人は物的感覚が強いですから、すぐさま意念だけで仕事をさせるのはムリです。(…中略…)頭がいいとか技術がすぐれているというだけでは上の界へ行くことは出来ません。大切なのは魂の善性ないし霊格です。私たちのいる界より下の界に、私たちより頭の良い方や技術のすぐれた方がたくさんおります。そうかと思うと底抜けの善人ではあっても思考技術の不足した方が高い世界にいます。そういう方は絵画を額縁に入れたり椅子にカバーを取りつけたりする仕事を好みます。精神的な仕事より手先の仕事の方が面白いのでしょう。
(『これが死後の世界だ』 P.124-125)
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■2012年07月号
日曜日
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人類への霊示、治病、指導、祝福などのため、もし人が無私の気持で使われることを望むなら、その人のオーラには秀れた霊光が注ぎ込まれる。その時、光の使徒として守護霊が身近に来ているのである。何人も霊媒であり得ることを銘記されよ。皆さんはすべて各々の特質に応じて役に立ち得る。治病家、教師、音楽家、文筆家、画家、皆さんはそうかもしれぬ。何をもって人類に役立とうと、自己を見えぬ世界に同調させようとする時、貴方は他界の英知の通路であり、霊媒であり得る。
(『霊性進化の道』 P.64)
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月曜日
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バイブルを読んでも(キリスト教)、タルムードを読んでも(ユダヤ教)、コーランを読んでも(イスラム教)、バガバット・ギーターを読んでも(ヒンズー教)、その他、いかなる聖なる書と呼ばれているものを、目が疲れるほど読んでも、それだけで霊性が成長するわけではありません。 “宗教的”と見なされている行事のすべてを行っても、それによって一段と価値ある人生へ魂を鼓舞することにならなければ、私達が考えている意味での宗教的人間になるわけではありません。 肩書き(ラベル)はどうでもいいのです。形式はどうでもいいのです。口先だけの文句はどうでもいいのです。大切なのは“行為”です。どういうことをしているかです。つまり各自の日常生活そのものです。
(『古代霊シルバーバーチ 不滅の真理』 P.142-143)
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火曜日
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神はつねに人間に語りかけております。そして人間と神との間には無数の中間的存在がいます。これまで二千年近くにもわたって人間を満足させてきた霊的食事が今日ではもはや満足できなくなり、そこで(スピリチュアリズムという名のもとに)新たな霊的流入が行われているところです。スピリチュアリズムは、それを最も必要とする時代への神のメッセージにほかなりません。本質において人生全般に関わる宗教性を帯びたメッセージです。 それは、人間がただ食べて飲んで寝てそして死んで行くというだけの存在ではなく、その内部に永遠に死滅することのない霊性を具えていること、そして又、この世で蒔いたタネは死後にかならず自分で刈り取らねばならないことを教えるメッセージです。われわれがスピリチュアリズムのことを、地上を再生せしめる唯一の力であると申し上げるゆえんはそこにあります。
(『インペレーターの霊訓』 P.78-79)
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水曜日
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問:本人には何の罪もないのに、さまざまな障害をもって生まれてくる子供がいるのはなぜでしょうか。
答:身体という外形だけで魂の価値を判断してはいけません。魂の進化と、それが地上生活で使用する身体の進化とを混同してはいけません。父親または母親、あるいは双方から受け継いだ遣伝的法則の結果として障害をもって生まれてくることがあるのは事実ですが、それが魂の進化を阻害することはありません。 障害をもって生まれてくる子供には、その魂にそれなりの埋め合わせの原理が働いているものです。正常な身体を持って生まれた子供よりも優しさ・寛容心・他人への思いやり等の強い性格をしていることがあります。永遠の時を尺度とした、因果律の一環としての「埋め合わせの原理」というものがあり、それは逃れようにも逃れられません。 次代の子孫に物的身体を提供する責任を担っている両親は、可能な限り完全な身体を提供すべきですが、仮にそれが出来なかったとしても、埋め合わせの原理が働きます。
(『シルバーバーチは語る』 P.190)
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木曜日
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(管理人注:通信霊が霊界の動物の様子について語る)
突然このネコは、とても面白いことをし始めました。イスから飛び降り私の所にきてお座りをし、耳を立てて私を見上げました。そのネコは鳴きもしませんでしたし、地上のネコのように騒いだりもしませんでした。そして驚いたことに私に話しかけてきたのです。私が飛び上がるほどびっくりしたことはお分かりでしょう。 ガイドの女性は言いました。 「心配しないでください。すぐに分かることですから。こちらの世界では動物は能力をたいへん進歩させ、自分の意志を伝えることができるのです。もちろん地上でもある程度は同じようなことができるでしょうが、動物の話を聞くというようなことはできなかったはずです。地上では動物は、われわれ人間が理解できる言葉を持っていませんでした。しかしこちらでは動物たちの考えは大気を振動させ、私たち人間がそれを聞き取ることができるのです。そのようにして人間は動物の考えを知ることができるのです」。
(『500に及ぶあの世からの現地報告』 P.178-179)
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金曜日
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問:進化の極致において神と合一したとき、われわれは個性を失ってしまうのでしょうか?
答:進化の極地は涅槃(ねはん・ニルバーナ)に到達することではありません。霊的進化は、個性の無限の開発へ向けての歩みです。個性が薄らいでいくのではなく、逆に鮮烈になっていくのです。潜在能力が開発され、より多くの知識を身につけ性格が強化され、神性がますます発揮されていきます。大霊は無限の存在ですから、開発は無限に続きます。完全というものは達成されません。完全へ向けての無限の努力が続くのです。自分を失うことは永遠にありません。逆に、永遠に自分を発見していくのです。
(『スピリチュアルな生き方Q&A』 P.164)
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土曜日
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植物・昆虫・魚類・鳥類・それに四足動物を学校の学年別のように考えれば分かり易いでしょう。物的形態の死滅後、植物のエッセンスないしは魂が無数に集まって一つにまとまった存在を形成し、やがて一学年進級して昆虫の身体に宿ります。その昆虫の魂が無数に集まって一つのまとまった存在を形成すると、今度は魚類あるいは鳥類の身体へと進級します。こうした過程が延々と続いて、遂には人間が飼い馴らしている動物の中でも最も知的なものへと進化していきます。 犬とか猫、馬、あるいは猿などの中には人類の身体に宿っている極めて未熟な魂とどこか似通った知性の核を宿しているものが見受けられます。そうした物言わぬ仲間が、我々が“地上的欲望の園(幽界)”と呼んでいる界層へやって来ます。“国”というよりは“死後の状態”と呼んだ方がいいかも知れません。要するに私が言いたいのは、動物たちにも死後に存在し続けているものが少なくないということです。薄ぼんやりとした中で地上生活の夢を見ているのです。 (…中略…) しかし、動物はそこで行き止まりです。そこから先(上層界)へは行けません。そして、いつかは地上へ戻り、人間の身体に宿ることになります。人間として生まれて善悪の観念という果実を食べなくてはならないのです。地上の生物の中でその果実の味を知っているのは人間だけです。
(『永遠の大道』 P.259-261)
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■2012年08月号
日曜日
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妖精として知られている霊――庭園などで働いている小さな妖精たちに、通常、人間は気付きません。しかし、彼らに愛や調和のある気持を向ければ、彼らはこれに反応します。こういう方法で、忙しく物陰で花や木に霊的生命素を運んでいる妖精たちの愛を、かちとることができます。これら幽的生命たちの姿形はさまざまです。だが一般には人間に似た姿をしており、羽を持っていることもしばしばです。妖精たちは本当は小さいんですが、その特殊の仕事によってはかなりの大きさのものもいます。彼らは霊視すれば、庭や森や水辺や、時には家の炉でも見えます。この後者は火の精のサラマンダーです。火の精は、外にもそういう妖精はいますが、怒らせるとひどい悪戯をしたりします。――これは仕掛ける人間にもよりますが。もし、皆さんが彼らを信じ、愛情を持って、協調して生きようとか仕事をしようとかすれば、彼らも皆さんを愛し奉仕をしてくれます。
(『ホワイト・イーグルの霊示 天使と妖精』 P.77-78)
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月曜日
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問:もう一度やり直すチャンスはすべての人に与えられるのでしょうか
答:もちろんです。やり直しのチャンスが与えられないとしたら、宇宙が愛と公正とによって支配されていないことになります。墓に埋められて万事がお終いとなるとしたら、この世は実に不公平だらけで、生きてきた不満だらけの人生の埋め合わせもやり直しもできないことになります。 わたしたちが地上の人々にもたらすことのできる最高の霊的知識は、人生が“死”をもって終了するのではないこと、したがって苦しい人生を送った人も失敗の人生を送った人も、あるいは屈辱の人生を送った人も、みんなもう一度やり直すことができるということ、言いかえれば、悔(くや)し涙を拭(ぬぐ)うチャンスが必ず与えられるということです。 人生は死後も続くのです。永遠に続くのです。その永遠の旅路の中で、人間は内在する能力、地上で発揮しえなかった才能を発揮するチャンスが与えられ、同時に又、愚かにも摂理を無視し、他人の迷惑も考えずに横柄(おうへい)に生きてきた人間には、その悪業の償いをするチャンスが与えられます。
(『地上人類への最高の福音』 P.154-155)
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火曜日
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怒りっぽい人、あら捜しをしてまで怒りの種を見つける人のまわりには、まちがいなく、敵意に満ちた霊がひしめいている。わたし(管理人注:この文章の通信霊)は、そうした霊が大勢集まってひとりの男をとり囲んでいるのを見たことがある。彼らは自分たちの邪悪な磁力で男を刺激し、彼の激した心が反動でおちついてくると、再び怒りを煽りたてていた。 単に争いにひかれてある人間に近づいた霊が、その人個人に興味を移すこともある。怒れる霊にとりつかれた男が、四六時中かんしゃくをおこして荒れ狂っていれば、その霊は、この男にとりついていれば毎日何度も怒りの爆発のスリルを味わえると確信するだろう。人間にとってこれほど不幸な状態はない。へたをすれば、妄想に襲われ、最後には発狂ということにもなりかねない。
(『死者Xから来た手紙』 P.194-195)
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水曜日
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最高の徳は愛他的です。愛すべきだから愛する、愛こそ神の摂理を成就することであることを知るが故に愛する、これです。愛らしい顔をした子供を治療してあげる、これはやさしいことです。しかし、奇形の顔をした気の毒な人、ぞっとするような容貌の人を治療するのは並大抵の心掛けではできません。が、それが奉仕です。真の愛は大小優劣の判断を求めません。愛するということ以外に表現の方法がないから愛するまでです。宇宙の大霊は無限なる愛であり、自己のために何も求めません。向上進化の梯子を登って行けば、己のために何も求めず、何も要求せず、何も欲しがらぬ高級霊の世界に辿り着きます。ただ施すのみの世界です。
(『シルバー・バーチの霊訓 第一巻』 P.143)
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木曜日
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僕(管理人注:この文章の通信霊)は以前、きみ(管理人注:この通信の受け手・霊媒)に、地上での生き方によって、こちら(霊界・死後の世界)に到着した後、それぞれ異なった場所に送られる話をした。ある人たちは彼らを待っている気持のよい家庭へ、また不正や搾取によって蓄財した人たちは彼ら自らが準備した、むさ苦しい貧しい場所に送られる。といった具合だ。地上で、無慈悲な利己的な生活を送った人々、贅沢な楽しみに明け暮れた億万長者などは、こちらに来てから、恐ろしい環境にいる自分を知らされる。その現実は、彼らの怒りや憤りを呼び覚ますが、最後になって、彼ら自身が地上でやった所行の罰であると気付く。それは神の仕業ではなく、彼ら自身の成せる業であり、霊的貧困の避けられない結末なのだ。 それから、他人に残酷な行為をして喜んだ人々がいる。こんな人たちは、自分自身と同じくらい野獣性のある仲間の中に、自分がいるのを発見する。しかし、そんな彼らでも、その恐ろしい環境に悩むようになり、自らを責め、自らの罪を認めたときに、望みが出てくる。もちろん、希望の実現には時間はかかるが、それが上昇の第一歩となる。
(『ゴードンより愛をこめて』 P.57)
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金曜日
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問:地上というところは魂の修行場としていろんな面で有利であるといった趣旨の話をよく耳にします。地上的闘争をくぐり抜けねばならないということそれ自体が地上の良さでもあると言えると思うのです。
答:おっしゃる通りです。当然そうあらねばなりません。もしそうでなかったら地上へ生まれてくることもないでしょう。宇宙の生命の大機構の中にあって、この地球もそれなりの役割があります。地上は保育所です。訓練所です。いろんなことを学ぶ学校です。身支度をする場です。潜在している才能が最初に芽を出す場であり、それを人生の荒波の中で試してみる所です。そうした奮闘の中ではじめて真の個性が形成されるのです。闘争もなく、反抗もなく、困難もなく、難問もないようでは、霊は成長しません。進化しません。奮闘努力が最高の資質、最良の資質、最大の資質、最も深層にある資質を掘り起こすのです。
(『シルバー・バーチの霊訓 第六巻』 P.166)
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土曜日
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皆さんの一人ひとりが発電所であると思ってください。他人にかける迷惑、善意の行為、死後の後悔のタネとなる行い……どれもこれも自分自身から出ています。そうした行為と想念のすべてが総合されて、死後に置かれる環境をこしらえつつあるのです。寸分の誤差もありません。高等な思念(良心)に忠実に従ったか、低級な悪想念に流されたか、肉体的欲望に負けたか、そうしたものが総合されて、自然の摂理が判決を下すのです。 地上時代のあなたは、肉体と精神と霊(自我)の三つの要素から成ります。死はそのうちの肉体を滅ぼしますから、霊界では精神と霊だけとなります。ですから、地上時代から精神を主体にした生活を心がけておくことが大切なわけです。
(『タイタニック沈没から始まった永遠の旅』 P.97)
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■2012年09月号
日曜日
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人の思いと行為はまさに種子です。その果は、他日、狂いなく刈り取られます。貴方の魂と貴方の肉体の上に。これら種子は貴方の未来を創るひな型です。貴方の未来は、この狂いなき法の表現であり、誰一人これから逃れることは出来ません。 この法(カルマ・業)と共に、これを補足する、東洋でダルマと呼ばれる法があります。ここで「ダルマ」とは、人が置かれた環境でベストを尽せば、その環境や境遇は良いものに変えられる、この法です。このように、かの厳しく狂いのない因果の法とならんで、神の慈悲の発露であるダルマの法があるのです。神はかようにその子等に慈悲深くあられる。しかし、神は努力も苦しみもなしにあることを許し給わず、また、その罪を償うことなしにすますことも許し給わない。その代わり、神は常に呼びかけておられる、「子等よ、我が愛は傍らにあり、汝等を助けよう」と。神の愛は慈悲です。神はその子等が自らつくったカルマをうまくくぐり抜けられるようにしておられる。こうして神はすべての傷ついた者を癒し給う。この神の慈悲は、人の示す慈悲と密接に関連しています。人が他者に示す慈悲の分量だけ、神はその者に慈悲を垂れ給う。
(『ホワイト・イーグル霊言集』 P.48-49)
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月曜日
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問:再生する時は前世と同じ国に生まれるのでしょうか。例えばインディアンはインディアンに、イギリス人はイギリス人に、という具合に……
答:そうとは限りません。目指している目的のために最も適当と思われる国・民族を選びます。
問:男性か女性かの選択も同じですか。
答:同じです。必ずしも前世と同じ性に生まれるとは限りません。
(『シルバーバーチは語る』 P.323)
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火曜日
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霊の世界の美しさに目を向けたら、地上などは影みたいに消えていきます。ただ、後に残した愛する者達のことは別ですがね。恐れるものは何もありません。一つだけご忠告申しておきたいことは、謙虚に善事をなすことです。羽をきれいにつくろうことです。そうしたら小さな事が、こちらに来てから、何一つ忘れられていないってことが分かるでしょう。それが貴方の衣服の珠玉、家のダイヤモンドとなります。人は誰でも奉仕によって、地上生活で蒔いた愛の収穫を刈り取ることになります。霊の世界に入ってから、そのすべてが貴方の遺産となりましょう。
(『THE WAY OF LIFE 人間の生き方』 P.284)
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水曜日
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問:寿命は魂の誕生に際してあらかじめ決まっているとおっしゃいましたが、それはすべての魂に当てはまることでしょうか。たとえば未執な魂にも自分がこれからたどる人生についての正しい判断や知識、叡知などが備わっているでしょうか。“魂”の次元ではすべてが平等なのでしょうか。
答:魂が物的身体に宿る前と後とでは、発揮する叡知の量には格段の差があります。誕生後の自我は物的身体の機能によって大幅に制約されます。が、誕生前は、すべての魂とは申しませんが、大体において自分が地上でたどるべき人生について承知しております。
問:誕生前から自分のたどるべき人生が分かっているということは、その結果まで分かっていることになりませんか。
答:分かってますよ。
問:こういう体験をしてこうなるということが分かっているものを、なぜわざわざ体験しに行く必要があるのでしょうか。
答:その地上体験のあと霊界へ戻ってから為すべき仕事があるのです。それに備えて霊力を磨くのです。体験すべきものが前もって分かっているということは、その体験によって初めて身につく霊的成長の代用になりません。 世界中の図書館の本を全部読んでも、それだけでは進歩は得られません。それを体験によって強化しないといけません。つまり霊的成長が得られるか否かは、人生体験にどう対応するかに掛かっています。そこに、地上に生をうけた、そもそもの意義があるのです。
(『古代霊シルバーバーチ 新たなる啓示』 P.133-134)
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木曜日
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(管理人注:通信霊が地獄界のある都市で発行されている新聞の記事を紹介している)
また、ニューヨークとおぼしき不潔きわまる街を通った時のことだ。新聞社があって、いま丁度、朝刊が発行されたところだというので、一枚買い求めた。その記事の中から目立ったものを紹介しよう。
・二人のスパイ逮捕さる――他の地方から侵入した、宣教師と称するスパイが、不倫の都市の平和を乱したとして、きびしく攻撃してあった。 ・地獄の新入り紹介――死んで地獄に送られてきた人々の名簿で、特に有名人については、会見記事が掲載してあった。 ・「徳義の敗北」――これは、気まぐれの良心が、どんなに自分と地獄世界を破滅させるかという、近頃人気ナンバーワンの新作劇の紹介。 ・そのほか、競馬だの、新会社の設立だの、駆け落ちだのの記事が満載されていた。
(『ワードの死後の世界』 P.182-183)
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金曜日
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困難・障害・不利な条件――これらは魂の試練なのです。それらを克服していくことによって魂がいっそう充実し、向上し、一段と強くそして純粋になってまいります。 あなたは、無限の可能性を秘めた魂の潜在力が、困難も苦痛もなく、陰もなく悲しみもなく、人生の浮き沈みを何一つ体験せずして発揮されると思われますか? もちろんそうは思われないでしょう。 人生の喜び、愉快な笑いの時は、人生の辛酸をなめつくして初めて解るのです。なぜなら、深く沈んだだけ、それだけ高く上がれるからです。地上生活の陰を体験しただけ、それだけ日向の喜びを味わうことができるのです。 体験のすべてがあなたの進化の肥やしです。そのうちあなたにも、肉体の束縛から解放されて物的な曇りのない目で地上生活を振り返る時がまいります。そうすれば、紆余曲折した一見とりとめもない出来事の絡み合いの中で、一つ一つがちゃんとした意味をもち、あなたの魂を目覚めさせ、その可能性を引き出させる上で意義があったことを、つぶさに理解なさるはずです。
(『霊性進化の道しるべ』 P.136-137)
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土曜日
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問:すでに罪悪のタネが蒔かれていて、たまたま置かれた地位や立場上その責任を負わざるを得ないことがあります。この場合、最大の咎めを受けるのは誰でしょうか。
答:最初にタネを蒔いた者です。罪悪そのものに対して責任を取らされるだけでなく、図らずもそのトラブルに巻き込まれた者がこうむった苦しみに対しても責任を問われます。
問:反対に、自分は直接手を染めなかったけれどもその罪悪によって利益を得た者は、直接参加した場合と同じ罪に問われるのでしょうか。
答:その通りです。罪による利益を手にした者は、罪を犯したのと同じです。仮に気が咎めて直接犯罪行為に加わらなかったとしても、実際に犯罪が実行され、その結果として得られた分け前を懐にすれば、直接参加したのと同じです。
(『霊の書 スピリチュアリズムの真髄 思想編』 P.243-244)
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■2012年10月号
日曜日
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自然の王国は人間の世話を必要としています。即ち人間は花の成長に、花を切ることに、花で部屋を飾ることに、責任を負っているのです。これらの花は敏感なのです。自分の内に生命力がありまして、あなたの愛を求めています。愛の心が向けられることを望んでいます。すなわち、あなたから知って貰いたいと願っているのです。(神への)道にある者は、動物を、植物を愛しようとします。これらが神の部分、あなた自身でもある、生命の表現体であることを理解しているから。
(『ホワイト・イーグルの霊示 光への道』 P.63)
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月曜日
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問題は、人間の多くが、自分が今置かれている境遇に不満をかこつばかりで、過去の生活を冷静に振り返り、不満に思える現在の境遇から一歩離れて冷静に反省すれば、この世はすべて闇だ、イヤなことばかりだと思えたその時期こそ、霊的に最も大きく成長していたことが分かるということを、なかなか悟ってくれないことです。
(『地上人類への最高の福音』 P.51)
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火曜日
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(管理人注:通信霊が梅の精〈妖精〉について述べる)
「まあ、何という不思議な世界があればあったものでございましょう!」と私はわれを忘れて、夢中になって叫びました。「お爺さま(指導霊)、あそこに見える十五、六歳位の少女は何と品位の良い様子をしていることでございましょう。衣装も白、羽も白、そして白い紐で額に鉢巻をしております。あれは何の精でございますか?」 「あれは梅の精じゃ。若木の梅であるから、その精もやはり少女の姿をしている」 「木の精でもやはり年をとりますか?」 「年をとるのは妖精も人間も同一じゃ。老木の精は、形は小さくとも、やはり老人の姿をしている」 「そしてやはり男女の区別がありますか?」 「無論男女の区別があって、夫婦生活を営むのじゃ」 そう言っているうちに、件の梅の精は、しばらく私たちの方を珍しそうに眺めていましたが、こちらに害意がないと知って安心したのか、やがてスーッと、丁度とんぼのように、空を横切って、私の足元に飛び来り、その無邪気な、朗らかな顔に笑みをたたえて、下から私を見上げるのでした。 ふと気がついて見ると、その小人の体中から発散する、何ともいえぬ高尚な香気! 私はいつしかうっとりとしてしまいました。
《木曜日につづく》
(『小桜姫物語』 P.186-187)
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水曜日
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あなたがたにとって当たり前となってしまったことが人類史上最大の革命的事実に思える人がいることを忘れてはなりません。人間は霊的な存在であり、神の分霊であり、永遠に神とつながっている――私たち霊団が携えてくるメッセージはいつもこれだけの単純な事実です。神とのつながりは絶対に切れることはありません。時には弱められ、時には強められたりすることはあっても、けっして断絶することはありません。人間は向上もすれば堕落もします。神のごとき人間になることもできれば動物的人間になることもできます。自由意志を破壊的なことに使用することもできますし、建設的なことに使用することもできます。しかし、何をしようと、人間は永遠に神の分霊であり、神は永遠に人問に宿っております。
(『シルバー・バーチの霊訓 第五巻』 P.28)
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木曜日
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《火曜日のつづき》
(管理人注:通信霊と梅の精〈妖精〉との会話)
通信霊「あなたはよく怖がらずに、私の所へ来てくれましたね」 梅の精「でもおばさまは私を可愛がってくださいますもの」 通信霊「可愛がってくれる人と、くれない人とが判りますか?」 梅の精「はっきり判ります。私達は気の荒い、むごい人間が大嫌いでございます。そんな人間だと私達は決して姿を見せません。だって、格別用事もないのに、せっかく私達が咲かせた花を枝ごと折ったり、何かするのですもの」 そう言って、梅の精はそのきれいな眉に八の字を寄せましたが、私にはそれがかえって可愛らしくてなりませんでした。 通信霊「でも、人間は、この枝振りが気に入らないなどと言って、時々はさみでチョンチョン枝を摘むことがあるでしょう。そんな時にあなた方はやはり腹が立ちますか?」 梅の精「別に腹は立ちません。枝振りを直すために切るのと、いたずらで切るのとは、気持ちが全然ちがいます。私達にはその気持ちがよく判るのです」 通信霊「では花瓶に活けるために枝を切られても、あなた方はそう気まずくは思わないでしょう?」 梅の精「それは思いません。私達を心から可愛がってくださる人間に枝の一本や二本喜んでさしあげます」 通信霊「果実をとられる気持ちも同じですか?」 梅の精「私たちが丹精して作ったものが、少しでも人間のお役に立つと思えば、かえってうれしゅうございます」
(『小桜姫物語』 P.189-190)
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金曜日
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大切なのは、取り越し苦労をしないということです。心配の念は私たち霊界から援助する者にとって非常に厄介な障害です。拒否的性質があります。腐食性があります。恐れ・心配・不安・こうしたものはその人を包む物的・精神的・霊的雰囲気を乱し、私たちが近づくのを一段と困難にします。 真理を知った者は、それがわずかであっても――たとえ多くを知ったとて、無限の真理からすれば多寡が知れています――いついかなる事態に直面しても、穏やかで平静で受容的態度を維持すべきですし、又そう努力すべきです。全生命に存在を与えている霊力より強力なものはないとの断固たる自信に満ちていなければなりません。何度でも繰り返し申し上げられる私からのメッセージがあるとすれば、それは“心配の念を棄てなさい。そうすれば内部に静穏が得られます。内部が静穏になれば外部も静穏になります”ということです。
(『シルバー・バーチの霊訓 第十一巻』 P.169-170)
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土曜日
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問:霊能者はいつも守られているものでしょうか。
答:霊能者だけがとくに守られるということはなく、みずからの自覚によって日常生活を明るく陽気なものにしなくてはなりません。落ち込んだり動揺したりしてはいけませんし、腹を立てたり悲しんだりしてはいけません。そうした低級な感情は低界層とつながるからです。これは、普通一般の人も同じことです。低級界と波動がつながると、物的身体を通して“光”を見たがる地縛霊が寄ってたかります。霊性が目覚めていないスピリットは、霊的な明るさが見えないために、暗闇の中で生活しております。地上なら太陽の光があって、少なくとも辺りは明るいです。彼らは、その明るさを求めてやってくるのです。心を入れかえれば霊眼が開くのですが、それが分からないのです。
(『迷える霊との対話』 P.666-667)
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■2012年11月号
日曜日
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法の働きに狂いはありません。それ故に、自分のべストを尽したら、そのあとは神の慈悲に、英知に、愛にまかせなさい。私には自分の良い道が分かっているなど、決して思わぬことです。神のみがそれをご存知です。神は貴方の必要に応じて送って下さいます。謙そんであれ、忍耐しなさい、信じなさい。 (…中略…) 忍耐の本当の意味は、神は常に私を見守っていて下さる、この確信です。偉大な白光の霊であられる神は常に貴方の傍に、貴方の中に居られて、貴方の魂に賢にして美なる目的を遂行しておいでになります。目的地点に行くのに出来るだけ早く行かねばならぬなどと、そんな気持で人生を生きないことです。毎日、毎時、毎分を、神がお守り下さるその愛の中で、心静かに生きることです。その時その時の現在を生きること、また一時に一つの事を平静にすること、これです。
(『自己を癒す道』 P.188-190)
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月曜日
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地上の人類はまだ痛みと苦しみ、困難と苦難の意義を理解しておりません。が、そうしたものすべてが霊的進化の道程で大切な役割を果たしているのです。過去を振り返ってごらんなさい。往々にして最大の危機に直面した時、最大の難問に遭遇した時、人生でもっとも暗かった時期がより大きな悟りへの踏み台になっていることを発見されるはずです。いつも日向で暮らし、不幸も心配も悩みもなく、困難が生じても自動的に解決されてあなたに何の影響も及ぼさず、通る道に石ころ一つ転がっておらず、征服すべきものが何一つないようでは、あなたは少しも進歩しません。向上進化は困難と正面から取り組み、それを一つひとつ克服していく中にこそ得られるのです。
(『シルバー・バーチの霊訓 第四巻』 P.41)
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火曜日
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(管理人注:本書の通信霊アンドレオの勤める霊界の施設に、全身を58もの黒い斑点で覆われた哀れな身なりの女の霊が尋ねてきた。守衛長パウロがその霊を霊視して次のように説明する。この事例は、利己的な堕胎は両親だけでなく、それを手伝った医師にも死後その罪が負わされることを示すもの)
パウロは、ものごとをていねいに教えるコツと落ち着きをもって、うまく説明していった。 「この黒ずんだ斑点は、五十八人の胎児をお産で殺したことを示しています。たたくか窒息かで殺された子供の精神状態がどの斑点にもうかがえます。この女の人は婦人科医を営んでいたのです。他人の心の重荷をおろすといっ名目のもとに、世なれぬ娘たちの過ちを利用して、罪を重ねてきたのです。彼女の立場は自殺者や殺人者のものよりもっと悪いといえます。依願者には時にはのっぴきならぬ事情もあるからです。」 わたしはこの時、母体を危険から救うための堕胎手術を何回となく身近に見たことを思い出して、ぞっとした。パウロはなお口を開いた。 「いまお話しているのは、あがないを果たす上にやむをえない試練の一局面と認められる正当な手術のことではなくて、生きる権利をもって現世の試練を始めようとする者の生命を、断つという犯罪についてです。」
(『われらの住み家 ある霊界集団の物語り』 P.169)
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水曜日
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叡知というものは体験から生まれます。十分な体験を経て魂が要求するようになった時にはじめて真理が受け入れられます。それから、今度はその知識をどうするかの段階となります。その知識を他人のために活用する義務の問題です。そうした過程は実に遅々としたものですが、人類の進化はそういう過程を経るしかないのです。啓蒙の領域を絶え間なく広げていく過程であり、退嬰的な暗黒の勢力との絶え間ない闘いです。一人ずつ、あるいは一家族ずつ、悲しみや苦しみ、辛い体験を通じて少しずつ魂が培われ、準備が整い、強烈な感動を覚えて、ようやく悟りを開くのです。
(『シルバー・バーチの霊訓 第三巻』 P.107-108)
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木曜日
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道徳的な慈善とは、生きる者たちがお互いに辛抱し合うことであり、それはこの遅れた世界、あなたたちが現在、肉体を持って生まれている世界においては、非常にまれにしか行われていないことです。私の言うことを信じてください。自分よりも愚かな者には話をさせておき、自分は黙っていることが、人間にとって大きな利益をもたらすのです。人をひやかしてばかりいる人の口から漏れるひやかしの言葉に耳を傾けないことや、あなたを侮辱の笑みをうかべて見下す人たちを無視することは、一種の慈善なのです。彼らは多くの場合、自分たちがあなたたちよりも優れていると誤って思いこんでおり、唯一の真の世界である霊の世界においては、あなたたちよりも劣っていることがめずらしくありません。この場合、必要なのは謙虚さではなく、慈善です。なぜなら、他人の行う悪に関心を持たないことは、道徳的な慈善でもあるからです。
(『スピリティズムによる福音』 P.237)
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金曜日
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ガンは精神の持ち方と深く関わっている病気の一つです。個体としての不調和が原因です。病理学的には寄生虫病的な増殖をする種類に属しますが、原因をたどっていくと意地きたなさ・憎しみ・失意・虚栄心・その他、精神と肉体の調和を乱す何かがあり、その結果として悪性の細胞が手の施しようのない勢いで増殖していきます。 病気は食べ物や飲み物だけで片づく問題ではありません。精神的な要素と霊的な要素も考慮しなければなりません。肉体に関わることだけで霊を判断することはできません。不可能なのです。たとえばタバコを止めたからといって、止められずに吸い続けている人より霊的に上かというと、必ずしもそうとは言えません。霊性はその人の生き方によっておのずと決まるもので、第三者から見てどうのこうのと批判すべきものではありません。
(『古代霊シルバーバーチ 最後の啓示』 P.76)
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土曜日
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(管理人注:霊的観点から見た老人性痴呆症について)
年とともに耄碌(もうろく)して行くその兆候を考察するに当たってまず認識しておかねばならないのは、その老人はすでに大半を霊界で過ごしているということである。その潜在意識は必ずしも半醒半夢の霊に憑依されているわけではないが、潜在意識と脳とのつながりが稀薄になっているために、言わば空き家になっている脳が周囲のさまざまな思念の侵入を許しているのである。かつては知的でしっかり者だった人が取り止めもない訳の分からないことを口走るようになるのは、そのためである。 その老人の意識は実質的にはすでに中間境にあり、潜在意識のごく一部が、脳ではなくて、身体機能を維持するための神経中枢と連絡を取り合っているだけである。従ってそういう老人を“耄碌した人間”と呼ぶよりは“肉体から分離した霊”と呼ぶ方が相応しいかも知れない。ある意味ではすでに死んでいると言ってもよいのである。三途の川を渡りながら肉体のみが地上に残っている。その肉体に知的生活を与えた“ことば”はもういない。(訳注「ことばが肉となった」というヨハネ伝の文句から)
(『個人的存在の彼方』 P.266)
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■2012年12月号
日曜日
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「緑の指」を持つ人々がいると言われています。彼らの波動には無数の自然霊が調和して、引き寄せられます。そのため彼らはこれら小さな仲間たちの助力を受けたり、それから便益を得たりします。他の人たちにはこのような能力の側面が発達しておりません。彼らも私は花が好きですよと言うかもしれません。なるほど、ある点まではそうかもしれない。しかし心にとめていただきたいのだが、愛するとは奉仕に波がないことです。また、成長するものを本当に愛するとは、自分を相手の生命流にぴたりと調和させることです。(…中略…) 皆さん、自分の花を愛しなさい。その花に語りかけ、木々に話しかけなさい。北米のインデアンは木の霊、花の霊、流れる水に話しかけていました。また山にいる神にも話しかけました――彼らにはすべての生命が神の表現だったのです。小さな野のひな菊たちとも親しみなされ、生垣の花とも、草の葉ともです。一つ一つの生きものと貴方が分かち合っている同胞性を感じるようにしなされ。鉱物たちも神の光と共に生きております。路傍の石ころさえも、伸びゆく植物たちと分け合っている生命と光で、うち震えております。もし、皆さんによく見える目があったら、庭のすべての花と木が、色と生命で鼓動し波動しているのが見えるはずです。
(『ホワイト・イーグルの霊示 天使と妖精』 P.112-113)
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月曜日
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地上世界は、そうやって魂が勉強する場所なのです。失敗もし、そして願わくば、それから何かを学んでいくのです。犯した間違いを正し、教訓を学び、より立派な行為を心がけ、二度と失敗しないようになっていくのです。そのうち、ある段階まで成長しますと、大切なのは目的の成就そのものよりも、その成就に向けて努力していく過程での体験によって、性格がどう形成されていくかであることに気づくようになります。過酷な体験の末に目からウロコが落ち、真実の価値の評価ができるようになり、最後は、物的なものにはそれなりの価値はあっても、絶対的価値のあるものではないことを悟ります。 暗く辛い人生の体験によって魂がそうした悟りの末に真実の自我に目覚め、大霊とのつながりを強めることになれば、その体験は大いなる価値があったことになります。これから訪れる未来のある時点で過去を振り返ってごらんになれば、辛く苦しくはあっても、霊的理解力の開発の節目となっていた体験を、有り難く感謝するようになることでしょう。
(『霊的新時代の到来』 P.202-203)
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火曜日
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霊界は孤独な霊たちで満ちています。皆地上に戻って自分たちがまだ生きていることを知らせたがっているのです。地上に残してきた人々のことを思い、何とか知らせられないものかともがいているわけです。もし肉体という障壁がなければ、地上にいたときよりずっと上手に助けたり忠告したりできます。 (…中略…) わたし(管理人注:この文章の通信霊)は一人の母親のことを知っています。彼女の息子は悪の道に入ってしまったのですが、その息子は自分の母は、はるかな天国にいると信じています。わたしはよく知っていますが、その母親は何年も息子の後を追いながら自分の存在を印象づけよう、そして息子に警告し悪の道から救いだそうともがいていました。しかし、どうしてもうまくゆきませんでした。 また、こんな一組の恋人たちを見ました。ある誤解から彼らは別れたのですが、間もなく男の死で彼らの間には決定的な障壁ができてしまいました。 男のほうは地上に残してきた恋人のところに出てきて、あらゆる手段で力の限りを尽くして本当のことを知らせようとしました。自分たちの心は誤解のため事実と反対に見えたかもしれないけれど、実は二人の心はずっと真実のものだったことを知らせようとしたのです。男は彼女に自分の存在を感じ理解してもらえたことを確かめたくて、彼女の顔つきや思念にその証を見ようと必死でしたが、それは無駄な努力に終わり、悲しみと絶望の中に沈んでゆきました。
(『スピリットランド』 P.121-123)
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水曜日
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問:物欲や権勢欲は、死後の世界でも存在するのでしようか?
答:死後の世界でも、幽界の低階層では、あいかわらず物欲と権勢欲が残っています。忘れてならないのは、死ぬということは肉体がなくなるだけで、霊的には生前と少しも変わっていないということです。しかも地上と違って、死後の世界は思念が実体をもつ世界です。あなたの考えることがリアルであり、実体があるのです。 やっかいなのは、地上時代の物欲や権勢欲が鎖となって、地球圏へ縛りつけることです。物的に死んだのですが、霊的にも死んでいて、こちらの世界よりもそちらの世界のほうに近い存在となっています。困ったことに、そういう存在が、地上界の欲望と権力欲にとりつかれた人間を、ますます深みに引きずり込んでいくのです。
(『スピリチュアルな生き方Q&A』 P.160)
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木曜日
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問:交通事故の場合は、その場所にとどまる場合があるとおっしやいましたが、そのような事故の場合、どのくらいの間、その場所にとどまっているのでしょうか。 また、事故以外の病院での死もありますが、「思い」というものは別にいたしまして、だいたい、どのくらいの期間、とどまっているのでしょうか。
答:「それもやはり、個人差というものがございます」と、言ったら、貴女は、大変、真面目でいらっしゃるので気に入らないでありましょうが、真面目な話、個人差というものがございます。 たとえば、交通事故で亡くなった者がすべて、その事故現場にいなければならない、しかも、ある一定の期間は、どうしてもいなければならない、というのではないのです。 戦争で戦死した者にしても、一瞬の内に肉体を失う事がありますが、すべての人が、その現場にい続けるということはないのです。そこに、個人差というものが出てくるのです。 (…中略…) 通常、どのような死を迎えたとしましても、普通の、素直な御霊であれば、五十日前後という事になります。仏教でいうところの「四十九日」、また、神道における「五十日祭」というのは、何も全く根拠のないものからきているのではございません。
(『幸せを呼ぶ龍宮物語』 P.44-45)
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金曜日
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問:あなたのお説ですと、大体において人間は誕生前から地上でどういう人生を送るかは分かっているそうですが、ある未熟な霊が一回の地上生活でこんどこそは飛躍的に向上してみせると決意して生まれてきた場合、それは可能でしょうか。そのために例えば霊媒としての道を選んだ場合、プラスになるでしょうかマイナスになるでしょうか。
答:どちらとも言えません。要はその能力をどう使用するかです。完全に無私の献身的な態度を維持すればプラスになります。私利私欲に走ればマイナスになります。
問:精神的にも霊的にも意識が向上した人が過去の罪を地上生活中に奉仕の生活によって償うのは可能でしょうか。
答:もちろん可能です。それが地上に生まれてくる、そもそもの目的なのですから。難しく考えることはありません。いろんな霊的意識が目覚め、なぜ地上にいるかが分かれば、それからの人生は償うべきものをどんどん償う人生となります。
(『古代霊シルバーバーチ 最後の啓示』 P.81)
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土曜日
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(管理人注:霊界で庭造りの仕事をしている通信霊が、ある一家の庭造りの様子を伝える)
その一家の世話は私もまったく予期していませんでしたので、突然指導霊から言いつけられた時ほ本当にびっくりしました。が、その家へ行ってみて尚更おどろきました。でたらめもでたらめ、それこそお話にならない庭の様子だったのです。一人がバラを植えようとし、もう一人がヒエン草を植えようと考える。その念が同じ場所に働くものですからゴチャゴチャになるわけです。いつの間にかバラ園のド真ん中にリラの木が立っていたりすることもあります。まるでツギハギだらけの敷物のようで、見られたものではありません。一人が畑の真ん中に細い道を作っていくと、いつの間にかその道に石ころが積み上げられています。岩石庭園(ロックガーデン)を作りたいという誰かの意念がそうさせるわけです。そうみているうちに今度はそのド真ん中が泥沼になっていきます。誰かが水蓮を植えようと考えているのでしょう。その様子を見ていた私は思わず“ヤレヤレどうしましょう”と叫んでしまいました。
(『これが死後の世界だ』 P.126)
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