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■人生の意義について2
自殺という形での死は別ですが、死ぬこと自体は恐怖の対象ではありません。むしろ喜びだと言ってもよいくらいです。なぜならそれは肉体という不自由な鎧からの解放であり、私たち本来の故郷への帰還を意味するからです。物質界という霊のトレーニング場で活動するためには、どうしても肉体というトレーニングウェアを着る必要があるのです。そして古くなり役に立たなくなれば脱ぎ捨てます。これが死というだけに過ぎません。しかし同時に、今生は二度と取り返しのつかない大切な期間であるとも言えます。
死ぬこと自体は恐怖ではありません。恐れなければならないことは他にあります。それは、「自分はあらかじめ設定しておいた人生計画をこの世でしっかりと果たせたのか」ということです。もし設定しておいた霊的成長の段階にまで達していなければ、また生まれ変わって同じ試練に遭遇することになってしまいます。ですから、人生の中で起こる出来事にはできるだけ積極的に対処していく必要があります。一つ一つの問題をクリアすることが霊的成長の階段を一歩一歩上がることに繋がっていくからです。日々に起こる出来事の中から、できるだけ教訓を汲み取ろうとする姿勢が大切です。
それらはあらかじめ生まれる前に設定しておいた試練かもしれませんし、自らの成長を促進するためにはどうしても必要な課題だったのかもしれません。あるいは解消しておかなければならない前世からの負のカルマなのかもしれません。もし前世でも自殺していたなら、今生でも自殺に追い込まれそうな状況を与えられます。それに耐え切れず自殺してしまえば、いずれまた来世で同じ状況を作り出してしまうのです。その悪循環から脱するためにも、強い意志によってこの人生を生き抜いていかねばならないのです。
もし今回の地上人生で負のカルマを形成したとしても、これからの生き方によってそれを解消していくことはある程度可能ですから、積極的に無私の善行に励むことが大切です。
このページでは、人生に刻苦しつつも立派に生き抜いた人が死後、どのような世界に赴くことになるのかを三つの事例で見ていきます。これらの事例は、私たちは地上でどのように生きていけばよいのかという見本であり、具体例でもあります。
トップページ ≫ 人生の意義について2 ≫ ある貧しい靴職人の死後
■ある貧しい靴職人の死後
『ベールの彼方の生活』は十九世紀後半から二十世紀初頭にかけて生きたG・V・オーエンという牧師に降ろされた霊界通信です。一巻から四巻で構成されており、一巻は主にオーエン氏の母親からの通信、二巻はオーエン氏の守護霊から、三、四巻はその守護霊に準ずる霊格を持った霊からの通信で成り立っており、巻が進むにつれ内容が高度になっていきます。
この書籍の第三巻『天界の政庁編』に、ある貧しい靴職人の死後の様子を伝える次のような通信文があります。彼はごく平凡な死者であり、霊界でもごく平凡な階層で生活を始めていました。
地上の言い方をすれば“何年も前”のことになるが、靴直しを生業としていた男が地上を去ってこちらへ来た。何とか暮らしていくだけの収入があるのみで、葬儀の費用を支払った時は一銭も残っていなかった。こちらで出迎えたのもほんの僅かな知人だけだったが、彼にしてみれば自分ごとき身分の者を迎えにわざわざ地上近くまで来て道案内をしてくれたことだけで十分うれしく思った。案内された所も地上近くの階層の一つで、決して高い階層ではなかった。が今も言った通り彼はそれで満足であった。と言うのも、苦労と退屈と貧困との闘いのあとだけに、そこに安らぎを見いだし、その界の興味深い景色や場所を見物する余裕もできたからである。彼にとってはそこがまさに天国であり、みんなが親切にしてくれて幸福そのものだった。
(P.46)
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この貧しい靴職人は、ごく一般的な過程を経て霊界の住人になっていることが分かります。このことは私たちも知っておくべき事柄です。なぜなら、あまりにも霊的な知識が無かったり、頑固な唯物主義者であったりすると、自分が死んだことが分からず地縛霊のような“迷い霊”になってしまうことになりかねないからです。ですから、死ねば先に霊界入りしていた親類や知人、ペットたちが迎えに来てくれ、彼らに導かれて霊界の落ち着くべきところに落ち着くことになる、ということを知っておく必要があります。
霊界とは霊がフワフワ漂っているような所ではなく、しっかりとした実体・実感のある世界です。そこには山や小川、森や湖のような自然があり、犬や猫、小鳥のような動物たちも存在しています。さらに霊たちの家があり、学校や病院、行政機関など社会機構があり、霊はそれぞれが自分自身の霊格や能力に見合った仕事を持っています。そもそもこの地上界が霊界の写しなのです。ですから地上のものが霊界にあっても何も不思議なことではありません。全ての元は霊界側にあります。それと同じく私たちの本来の住み家も霊界にあります。今はただ自らの成長のために地上界へと出向いて様々な体験をしている最中なのです。
さて、この平凡な靴職人は霊界入りしてから家を与えられ、そこである本を読んでいました。その本にはその界には不釣合いの高度な内容が書かれており、読んで何とか理解できるのですが、なぜこのような本が自分の家にあるのかと、彼はいぶかしく思っていました。その本には上層界での高度な仕事に就く高級霊団について書かれており、さらにその霊団を指揮するリーダーへの教訓も書かれているのでした。
この靴職人がそのように思っていたとき、彼の家に上層界から天使が訪ねてきました。その天使は彼に「何を読んでいるのですか?」と尋ねます。それに対し靴職人は「ここよりも高い界の書物のようです。なぜ私の家にあるのか判りません」と答えました。すると天使が……
そこで天使は開いていたその本を男の手から取って閉じ、黙って再び手渡した。それを男が受け取った時である。彼は急に頬を赤く染めて、ひどく狼狽した。その表紙に宝石を並べて綴られた自分の名前があるのに気づいたからである。戸惑いながら彼はこう言った。
「でも私にはそれが見えなかったのです。今の今まで私の名前が書いてあるとは知りませんでした」
「しかし、ご覧の通り、あなたのものです。と言うことは、あなたの勉強のためということです。いいですか。ここはあなたにとってはホンの一時の休憩所に過ぎないのです。もう十分休まれたのですから、そろそろ次の仕事に取りかからなくてはいけません。ここではありません。この本に出ている高い界での仕事です」
彼は何か言おうとしたが口に出ない。不安の念に襲われ、しり込みして天使の前で頭を垂れてしまった。そしてやっと口に出たのは次の言葉だった。「私はただの靴職人です。人を指導する人間ではありません。私はこの明るい土地で平凡な人間であることで満足です。私ごとき者にはここが天国です」
(P.47-48)
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この男性は地上時代は貧しい靴職人でしたが、実はとても霊格の高い霊だったことがこれで分かります。本人はそんなことはまったく意識しておらず、天使にそれを教えられて動揺さえしていることも分かります。
彼のようなごく平凡な人物を、霊界の高い階層に進めるほどに進歩たらしめた要因とは何だったのかについて、動揺している彼に対する天使の次の発言を読むことで理解できます。これは霊的な成長(霊格の向上)を目指している私たちにとっても参考にすべきことで、いかに日々の生活での取り組み方が大切であるのかを教えてくれます。
「そういう言葉が述べられるということだけで、あなたには十分向上の資格があります。真の謙虚さは上に立つ者の絶対的な盾であり、防衛手段のひとつなのです。それにあなたは、それ以外にも強力な武器をお持ちです。謙虚の盾は消極的な手段です。あなたはあの地上生活の中で攻撃のための武器も強化し鋭利にしておられた。たとえば靴を作る時あなたはそれをなるべく長持ちさせて貧しい人の財布の負担を軽くしてあげようと考えた。儲ける金のことよりもそのことの方を先に考えた。それをモットーにしておられたほどです。そのモットーがあなたの魂に沁み込み、あなたの霊性の一部となった。こちらではその徳は決してぞんざいには扱われません。
その上あなたは日々の生活費が逼迫しているにも拘らず、時には知人宅の収穫や植えつけ、屋根ふきなどを手伝い、時には病気の友を見舞った。そのために割いた時間はローソクの明かりで取り戻した。そうしなければならないほど生活費に困っておられた。そうしたことはあなたの魂の輝きによってベールのこちら側からことごとく判っておりました。と言うのも、こちらの世界には、私たちの肩越しに天界の光が地上生活を照らし出し、徳を反射し、悪徳は反射しないという、そういう見晴らしがきく利点があるのです。ですから、正しい生活を営む者は明るく照らし出され、邪悪な生活を送っている者は暗く陰気に映ります。(…後略…)」
(P.48-49)
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これを読んで分かるように、霊的な成長にとって必要なものは日々においての善行の積み重ねであることが分かります。何か特別な大きな仕事をしなければならないということではありません。あくまでも“自らの良心に対して正直に、真っ当に生きる”ということに尽きると思います。本人の置かれている環境下で、その人の出来得る範囲内での善行を重ねていくことが大切なのです。
また、下線の部分を読めば分かるように、正しい生活を送っている者は天界から認識されています。それにより、善霊や高級霊から陰ながら支援を受けることができます。逆に、悪徳にまみれた生活を送る者は低級界から認識されており、悪霊や低級霊の影響を受けることになります。
上の引用を語った天使はその“かつての靴職人”に対し、「本に書かれていた界に、あなたをリーダーとする霊団がおり、あなたの到着を待ちわびている。さあ、そこへ参りましょう」と説得します。しかし彼は「私はその人たちを知りませんし、私に従ってくれないでしょう」と言ってなおも渋り続けます。そこで天使は「あなたは彼らを知っており、彼らもあなたを知っている。なぜなら、あなたは睡眠中に肉体から抜け出し、彼らと共に訓練を受けていたから」と言い、また「あなたをリーダーに選んだのは間違いを犯すことのない大天使であり、その大天使も力になってくれるので、あなたも頑張らなくてはいけない」と言って説得します。そしてついに彼もそれを受け入れることになりました。二人は高い界へと向けて出発します。
そう言い終ると天使は彼を従えてその家をあとにし、山へ向かって歩を進め、やがて峠を越えて次の界へ行った。行くほどに彼の衣服が明るさを増し、生地が明るく映え、身体がどことなく大きく且つ光輝を増し、山頂へ登る頃にはその姿はもはやかつての靴直しのそれではなく、貴公子のそれであり、まさしくリーダーらしくなっていた。
道中は長びいたが楽しいものであった。(長びいたのは本来の姿を穏やかに取り戻すためであった)そしてついに霊団の待つところへやって来た。ひと目見て彼には彼らの全てが確認できた。出迎えて彼の前に整列した彼らを見たときには、彼にはすでにリーダーとしての自信が湧いていた。各自の目に愛の光を見たからである。
(P.50-51)
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私たちは他人を判断するとき、その人の見てくれや社会的地位、持っている財産などを判断基準にしがちです。もし私たちが上で見た貧しい靴職人と同時代に生きていたら、彼のことを「平凡でつまらない男だ」と判断したかもしれません。しかしそのような判断は間違いであることが分かります。なぜなら彼はつまらない男どころか実は「高貴な霊」であり、高級霊団のリーダーでもあったからです。また同書第二巻(P.104〜107)では、地上時代に白髪の老婆だった女性が、あの世ではその徳性の高さゆえに、女王のごとき美しさと輝きを放つ女性霊として描かれている箇所があります。このように、私たちは人を見かけで判断することは控えるほうが賢明です。後々恥ずかしい思いをする可能性があるからです。
この靴職人の例を見ても分かるのですが、霊界で高い階層に所属する霊が地上世界ではごく平凡な人間であることは特に珍しいことではありません。あのイエス・キリストも当時の低い身分である大工の子供として誕生しています。また、カルマ的なものとは関係なく、高級霊が何らかの肉体的障害を持った身体に宿って地上経験を送る場合もあります。その場合は、より強力な霊的力量を獲得するために自らに課した厳しい挑戦です。それは力があればこそできる修行でもあります。
地上界では肉体的外見が人間の優劣を判断する一つの指標となりがちですが、霊的世界では霊の成長度が霊体の外見的美しさを決める絶対基準になります。この世ではどれほど霊的に発達した人でも、肉体的外見が好ましくなければ人としての価値が“劣”の判断をされかねませんが、あの世では霊的成長度がそのまま外見的美しさに反映されるのです。ここで紹介した靴職人の場合も霊界では「貧しい靴職人の外見から貴公子のようなそれに変わった」ことが分かります。これは逆の場合でも同じで、この世では美しい外見を持っていたとしても、霊的に罪深ければ霊界ではそれ相応の醜い外見を持つことになり、それが本人にとっても自分自身の霊的な未熟さを自覚する要因になります。
霊は、霊界では霊格が高くなればなるほど、活動する階層が高くなればなるほど、より重要で価値があり、やりがいのある仕事を与えられていきます。霊界では階層が高くなればなるほどその世界はより美しくなり、またより大きな幸福を享受できるようになります。そこはまさに光り輝く世界であり、そこに住む霊たちもまた光り輝く天使たちです。彼らは宇宙の神秘を知り、恒星間を活動の範囲に収めるほどの存在になっていきます。
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トップページ ≫ 人生の意義について2 ≫ 苦難の人生の後に あの世で授かる幸福
■苦難の人生の後に あの世で授かる幸福
次に紹介するは、地上人生を立派に生き、霊界に帰ってから多くの幸せを享受している霊からの、この地上世界で悪戦苦闘している私たちへの激励のメッセージです。再び『霊との対話 天国と地獄U』からです。
著者のアラン・カルデックは地上でサミュエル・フィリップという名前で呼ばれていた霊を招霊しました。カルデックは彼の地上での人物像を次のように記しています。
サミュエル・フィリップ氏は、まさに善人という言葉にふさわしい人物であった。彼が何か意地悪なことをするのを見たことのある人は一人もいないし、彼が誰かを非難するのを見たことのある人も一人もいない。
氏は、友人たちに対して本当に献身的に尽くしてきた。そして、必要なときには、みずからの利益をなげうってまでも、友人たちに奉仕するのであった。苦難、疲労、犠牲など、いっさいをものともせずに、人々に尽くした。しかも、ごく自然に、極めて謙虚にである。人がそのことに対してお礼でも言おうものなら、むしろびっくりするくらいであった。また、どんなにひどいことをされても、決して相手を恨まなかった。恩知らずな仕打ちを受けると、「気の毒なのは私ではなくて、彼らのほうなんですよ」と言うのであった。
(P.27-28)
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フィリップ氏は五十歳で、長い病苦の末に亡くなります。その後、カルデックの主催する交霊会に招霊されて次のようなメッセージを送ってきました。
「(…前略…)
私の人生にどれほど多くの試練があったかは、あなたがたがよくご存知のとおりです。しかし、ありがたいことに、私は決して逆境の中で勇気を失いませんでした。そのことで本当に自分をほめてやりたいと思っています。もし勇気をなくしていたら、どれほどのものを失っていたでしょうか。私が途中であきらめてそれらを投げ出し、したがって、同じことをもう一度、次の転生でやらなくてはならなかったとしたら……。そう考えただけで、恐ろしさに身震いするほどです。
(P.27-28)
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下線の部分に重要なことが書かれています。自殺は論外ですが、たとえ天寿を全うしたとしても、本来その人生の中で学ばなければならなかったことを学ばずに人生を終えてしまうと、もう一度生まれ変わって同じ課題に直面することになるのです。地上世界(物質界)は霊としての私たちにとってのトレーニング場であると同時に学校でもあります。ですからこれは地上的に言えば、「留年してしまう」ということになります。
フィリップ氏は続けます。
わが友人諸君よ、よくよく次の真理を体得していただきたいのです。すなわち、『問題は、死んでから幸福になれるかどうかだ』ということです。地上における苦しみで、死後の生活の幸福を購(あがな)えるとすれば、決して高い買い物ではありません。無限の時間を前にしては、地上でのほんの短期間の苦しみなど、本当に何ほどのこともないのです。
今回の私の人生は多少の評価に値するとしても、それ以前の人生はひどいものでした。今回、地上で一生懸命に努力したおかげで、ようやくいまのような境地に至ることができたのです。過去世でのカルマを解消するために、今世、地上において数多くの試練をくぐり抜ける必要があったのです。私はそれを潔く引き受けました。ひとたび決意したからには弱音を吐くわけには参りませんでした。
(…中略…)
私を地上で苦しめた人々よ、私につらく当たり、私に悪意を向けた人々よ、私を侮辱し、私に苦汁を飲ませた人々よ、虚偽によって私の財産を奪い、私を窮乏生活に追い込んだ人々よ、私はあなたがたを許すのみならず、あなたがたに心から感謝いたします。
あなたがたは、私に悪をなしながら、実はこれほどの善をなしていたなどとは、とうてい知るべくもなかったでしょう。いま私が享受している幸福のほとんどは、あなたがたのおかげなのです。あなたがたがいてくださったからこそ、私は許すことを学び、悪に報いるに善をもってすることを学ばせていただいたのです。
神は、私の進む道にあなたがたを配し、私の忍耐心を試してくださったのです。そして、〈敵を愛する〉という、最も難しい愛の行為ができるようにと、私に貴重な修行の機会を与えてくださったのです。
(…中略…)
私は、ちょうど、ある日突然とてつもない遺産を手にした貧乏人のような気分でした。しばらくのあいだは、それが本当だとは信じられず、明日の食事の心配をするのです。
ああ、地上の人々が死後の世界を知ることができたら、どんなによいことでしょうか。そうすれば、逆境にあって、どれほどの勇気、どれほどの力が得られることでしょう。地上で神の法に素直に従った子供たちが、天国でどれほどの幸せを得られるかを知っていれば、どんなことだって我慢できます。死後の世界を知らずに生きた人は、『自分の怠慢によって天国で失うことになる喜びに比べれば、地上にいるあいだに手に入れたくてしかたがなかった他人の喜びなど、本当に何ほどのこともない』ということを思い知らされるのです」
(P.30-35)
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二つ目の下線部に“神の法”という文言があります。この言葉を言い換えると、聖書的な教えである「自らを愛するように隣人を愛しなさい」または「自らがしてほしいと思うことを他人に対して行いなさい」ということになります。教え自体はいたって単純で誰でも理解できることなのですが、これを日常生活の中で実践していくのはなかなか難しいことです。しかし、それらを忍耐強く実践することが霊的な成長につながり、死後においてはより高い階層へ進化していくための大切な鍵になるのです。
フィリップ氏は前世からの負のカルマの解消のために、今生においては苦しい人生を“自ら進んで”選んだことが分かります。彼に限らず、私たちは自らの意志でこの世にやって来ています。自分を取り巻く環境がどんな状況であろうと、親には感謝しなければなりません。この世での貴重な体験機会を与えてくれたからです。
前のページで「地上人生の目的は霊としての自分自身の成長を図ること」であると述べました。つまり“霊格の向上”ということになります。霊格が向上すればするほど霊界ではより高い階層へと進むことができます。階層が高くなればなるほど、より大きな幸福を得ることができるのです。しかし、少しでも負のカルマを持っているとそれが叶えられません。高級霊界は“穢れなき霊たち”の世界だからです。霊的存在としての私たちは常に進歩を希求している存在です。高い階層へ進むことができないということは霊的な停滞を意味します。霊にとって停滞するということは苦痛なのです。停滞の原因が負のカルマの存在である場合、一刻も早くそれを解消しようと考えます。その手段として、地上に生まれ変わって苦しい一生を歩むという決断をする訳です。
フィリップ氏が述べているように、大切なのは「死後に幸せになれるかどうか」ということです。死後の生活の方が地上人生よりも遥かに長いのです。もちろん地上での幸せも大切です。誰にでも幸せになる権利があるからです。ですが、地上での幸せの基準を物欲的なものに合わせておくと、死後において後悔することになります。地上で得た財産や学歴、上りつめた地位などは死後には持ち越せず、あの世では何の意味も持たないからです。しばしば霊界では次のようなことが起こります。つまり、地上で王様や貴族、大金持ちだった人物が、あの世ではかつての召使いよりも低い世界に置かれ惨めな生活をしている、ということです。ただ、地位や学歴、金銭を得ること自体が悪い訳ではありません。それらは目的ではなく、社会を少しでも善くしていく為の手段として上手に利用していくことが賢明ということです。
地上人生で大切なのは日々における行いです。「人に対し、また社会に対していかに建設的・創造的役割を果たせたか」という地上人生での“生き方の質”が問われます。それらの積み重ねが死後に赴くことになる霊界での位置を決めるのです。このように、地上人生というのはとても大切な期間です。自殺なぞしている場合ではありません。私たちはこの地上での日々の行いによって、霊界での自分の境遇を創造している真っ最中なのです。自殺は人生を途中棄権することです。それは本当の意味での“敗北”であり、敗北者にはそれに相応しい霊界での境遇が与えられます。厳しいですが、それが現実なのです。
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トップページ ≫ 人生の意義について2 ≫ 亡き動物(ペット)たちとの再会
■亡き動物(ペット)たちとの再会
ここで紹介するのは上記二例とは少し違い、私たちが真っ当に地上人生を送りさえすれば得られる喜びについて見てみます。愛するペットたちを失ったことのある人には朗報になると思います。
すでに何度も述べているとおり、私たち人間は死んでこの世を去ると霊界へとその活動の場を移します。では動物たちの死後はどうなるのかというと、彼らもまた肉体という古衣を脱いで霊界へとその活動の場所を移すことになります。
おそらく大抵の人が経験していると思いますが、ペットとの死別はとても辛く苦しいものです。もしかしたら肉親と死別するよりも辛いかもしれません。いざこざを起こしやすい人間同士ではなく、ペットたちとの間では無条件で愛情を交わし合っていたからです。愛情を与え、愛情を授けてくれる存在を失うことで私たちは苦しむことになる訳です。このペットロス症候群と呼ばれる状態により、時には鬱状態に陥り自殺を考えてしまう人もいるようです。
実のところ、彼らとは必ず再会できます。私たちが天寿を全うし、霊界へ帰れば再会することができるのです。その意味で『虹の橋』という物語は真実です。彼ら動物たちは、かつての飼い主や愛情を注いでくれた人間を忘れることはありません。その人物が死んで霊界入りするまであちらの世界でずっと待っていてくれます。
『500に及ぶあの世からの現地報告』の中に次のような通信があります。この書籍は死んで間もない霊界人たちによる霊界通信で構成されており、人間は死後直後にどのような経験をすることになるのかを詳しく知ることができます。ここで紹介するお話の通信霊はウィルモットという霊で、死後直後にかつての愛馬ジェニーの歓迎を受けることになります。
ジェニーは私の三十代前半に馬車を引いていました。そのジェニーが年老いて死んだ時、私は本当に悲しみ嘆きました。ジェニーは私にとって他のどんな女性よりも親しく愛しい存在でした。私は心からこの馬を愛していました。ジェニーは私の言うことを全て分かってくれました。私はこれまでこの馬ほどいい馬に会ったことがありません。本当にいい馬でした。
私がこちらの世界に来て目覚め、初めに気がついた時、地上の野原のような所にいました。それから木の下にいました。するとジェニーが私の方に来るのが見えました。ジェニーだ! ジェニーは若く見えました。そしてとても幸せそうに見えました。私は何と言っていいか分かりませんでした。それは全く説明のできないことでした。
さらに驚いたことにジェニーが私に語りかけてきました。本当に不思議でした。声は聞こえませんが確かに話しかけてくるのが分かるのです(皆さんは馬が話をするなんて思いもよらないでしょうが)。しかしそういうことが本当に起こったのです。ジェニーが私に語りかけ、私を歓迎してくれているのが分かりました。ジェニーは私の近くに来ました。そして私の顔をなめ回しました。私はこの時の感動を永遠に忘れることはできないでしょう。私はぞくぞくするほどうれしく思い、ジェニーの体を軽く叩き続けました。
(P.27-28)
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この事例のように、たとえ動物であっても愛情を交し合った者同士には“永遠の別離”というものはありません。一時的に別れが生じてしまっても、いずれ必ず再会することができます。その対象は人間でも動物でも違いはありません。そのためにも私たちはしっかりとこの世での役割を果たしていかねばなりません。
このウィルモット霊のお話には続きがあるので、興味のある方はこちらを読んでみてください。
もう一例紹介します。ここでも紹介した小桜姫からの霊界通信です。彼女もまた、かつて地上で生活を共にしていた愛馬と霊界で再会することになります。ただ、上のウィルモット霊とは違う点があり、彼女の場合は馬よりも先に霊界入りすることになるのでした。
約500年前、大江家の一人娘だった女性(小桜姫)が相州(相模国・現在の神奈川県)荒井城城主の三浦家の嫡男のもとへと嫁入りしました。そこで十数年の武家生活を送りますが、当時確執のあった北条家からの攻撃を受け、3年もの篭城生活の後、夫や家臣たちは討ち死にし、城も落城してしまいます。彼女自身は落ち延びますが、城が落ちて約一年後に無念の後に病死してしまうのでした。
帰幽直後の小桜姫は、地上への執着や身内を滅ぼした敵への怨念などで、最初は薄暗い境涯(下層界)で生活することになり、そこで地上時代でのもろもろの負の感情や地上的感覚をそぎ落としていくことにより、少しずつ明るい境涯(上層界)へと進んでいきました。
霊界の修行場で、ある時彼女が精神統一の修行をしている最中、愛馬の若月の姿が浮かびます。小桜姫は「若月が死んでこちらの世界に来たのかもしれない」と思い、指導霊のお爺さんに「一度会わせてほしい」と願い出ます。彼女はその時のことを次のように語ります(現代文に直してあります)。
落城後私があちこち流浪をした時にも、若月はいつも私に付き添って、散々苦労をしてくれました。で、私の臨終が近づきました時には、私は若月を庭先へ呼んで貰って、この世の別れを告げました。「お前にもいろいろ世話になりました……。」心の中でそう思っただけでしたが、それは必ず馬にも通じたことであろうと考えられます。これほど可愛がった故でもございましょう、私が岩屋の内部で精神統一の修行をしている時に、ある時思いも寄らず、若月の姿が私の眼にはっきりと映ったのでございます。
「事によると若月はもう死んだのかも知れぬ……。」
そう感じましたので、お爺様にお訊ねして見ますと、こちらの世界に引越して居るとの事に、私は是非一目昔の愛馬に逢って見たくて堪らなくなりました。
「甚(はなは)だ勝手なお願いながら、一度若月のとこへ連れて行って下さる訳にはまいりますまいか……。」
「それはいと易しいことじゃ。」と例の通りお爺様は親切に答えてくださいました。「馬の方でもひどくそなたを慕っているから一度は逢っておくがよい。これから一緒に連れて行って上げる……。」
幽界では、どこをどう通っていくのか、途中のことは殆ど判りません。そこが幽界の旅と現世の旅との大きな相違点でございますが、ともかくも私達は、瞬く間に途中を通り抜けて、ある一つの馬の世界へとまいりました。そこは見渡す限り馬ばかりで、他の動物は一つもおりません。しかし不思議なことには、どの馬も皆逞しい駿馬ばかりで、毛並みのもじゃもじゃした、いやに脚ばかり太い駄馬などはどこにも見かけないのでした。
「私の若月もここに居るのかしら……。」
そう思いながら、ふと向かいの野原を眺めますと、一頭の白馬が群れを離れて、飛ぶが如くに私達の方へ駆け寄ってまいりました。それはいうまでもなく、私の懐かしい、愛馬でございました。
「まぁ、若月……おまえ、よく来てくれた……。」
私は心から嬉しく、しきりに自分にまとわり付く愛馬の鼻を、いつまでもいつまでも軽く撫でてやりました。その時の若月のうれしげな面持ち……私は思わず涙ぐんででしまったのでございました。
しばらく馬と一緒に遊んで、私は大変軽い気持ちになって戻って来ましたが、その後二度と行って見る気にもなれませんでした。人間と動物との間の愛情にはいくらかあっさりしたところがあるものと見えます……。
(P.49-51)
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小桜姫の場合もウィルモット霊の場合と同じく、無事に霊界でかつての愛馬と再会できていることが判ります。ただ先に述べたように、彼女の場合は馬よりも先に霊界入りしていました。彼女は霊界での修行の最中に地上に残した愛馬の死を霊感によって知ることになるのですが、このことは私たちの死(霊界入り)の場合でも同じで、霊界で生活している霊たちは、小桜姫のように地上に残した親類知人や、かつて愛情を注いだ動物の死を知ることができます。私たち地上の人間は、自らが死んだ時は親類や知人が迎えに来てくれるということを知っておく必要があります。彼らが速やかな霊界生活への順応を助けてくれるからです。
ここで紹介した二例は馬との再会ですが、もちろん他の動物でも同じように再会を果たすことができます。犬や猫、小鳥など人間にとって馴染み深い動物たちです。おそらく他の動物、たとへばハムスターやウサギなどの小動物でも同様だと思われます。人間側にその動物への愛情がある限り、彼らはその個体性を維持し続けると言われています。
実は私たち人間がこの世で動物たちと触れ合うことは双方にとって非常に有益なことです。特に動物たちにとってはかけがえのない体験です。なぜなら、私たちが霊的成長を目指しているのと同じように、彼らもまたこの世での体験によって霊的進化を図っており、人間とのふれあいがそれを促進させてくれるからです。ですから、動物を愛する人はこの世で価値のある仕事を知らず知らずのうちに行なっていることになり、いつかそれは双方にとって善い実として報われることになります。動物たちを愛することは、私たちの人生においても大切な行為であり意義の一つということになります。
小桜姫が最後に「人間と動物との間の愛情にはいくらかあっさりしたところがあるものと見えます」と述べています。私たちは霊界でも地上で一緒に生活していたペットたちと暮らすことは可能です。ですが人間と動物とでは進化の方向性が違うので、いずれ別れる時も来ます。しかし、この世的な悲しみの中でのそれではなく、両者の納得の上での発展的解消になります。彼ら動物たちは、“類魂・グループソウル”と呼ばれる霊の集合体に還りその個性を失いますが、人間に与えられた愛情が類魂全体の進化を促進させ、いずれ一個の人間としての活動を開始していくことになります。
映画『奇蹟の輝き』 亡き愛犬との再会
夫を失い嘆き悲しむ妻アニーに別れを告げ、死後の世界へと旅立つクリス。霊界のとある場所で目覚めた彼は、そこでかつてやむを得ず安楽死させた愛犬ケイティの歓迎を受ける。
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